・・・女は霊魂の助かりを求めに来たのではない。肉体の助かりを求めに来たのである。しかしそれは咎めずとも好い。肉体は霊魂の家である。家の修覆さえ全ければ、主人の病もまた退き易い。現にカテキスタのフヮビアンなどはそのために十字架を拝するようになった。・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、呻吟していたのではない。精神的な苦痛のために――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、泣き喚いていたのである。 彼は永久にこの世界に別れるのが、たまらなく悲しかった。それから・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・自分では気づかないでいるにしても、実際はかなり疲れているに違いない父の肉体のことも考えた。「もうお休みになりませんか。矢部氏も明日は早くここに着くことになっていますし」 それが父には暢気な言いごとと聞こえるのも彼は承知していないでは・・・ 有島武郎 「親子」
・・・とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだ事のない草鞋の底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟いむっちりした肉体を踏みつけた。彼れは思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に狂暴な衝動に駈られて、満身の重みをそれに托した。「痛い」 そ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 肉体に勇気が満ちてくれば、前途を考える悲観の観念もいつしか屏息して、愉快に奮闘ができるのは妙である。八人の児女があるという痛切な観念が、常に肉体を興奮せしめ、その苦痛を忘れしめるのか。 あるいは鎌倉武士以来の関東武士の蛮性が、今な・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・、彼等がどうして相率て堕落に赴くかということを考えねばならぬ、人間は如何な程度のものと雖も、娯楽を要求するのである、乳房にすがる赤児から死に瀕せる老人に至るまで、それぞれ相当の娯楽を要求する、殆ど肉体が養分を要求するのと同じである、只資・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・苟も吾々の肉体に於て、有ゆる外界の刺戟に堪え得るは僅に廿歳より卅歳位迄の極めて短かい年月ではないか、そして年と共に肉体的の疲労を感じて来て何程思想の上に於て願望すればとて、終には外界の刺戟は鋭く感覚に上って来なくなるのは明かな事実である。此・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・そのなよやかな、弱々しく見える、肉体の表わした衣物の上の線は、実にほゝえまずにはいられないほど無邪気な、何ともいえない、また貴い味いを、腰かけている母親の温かな、ふっくらとした膝の上に描いています。 あくまで描く上に真実であるミレーは、・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・「立ち入ったことをきくが、肉体的に一致せんとか何とかそんな……」「さアね」 と赧くなったが、急に想いだしたように、「――そういわれてみて、気がついたが、まだ一緒に寝たことがないんだ」「へえ……?」「忙しくてね、こっち・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・るのだが、日本のように、伝統そのものが美術工芸的作品に与えられているから、そのアンチテエゼをやっても、単に酔いどれの悔恨を、文学青年のデカダンな感情で告白した文学青年向きの観念的私小説となり、たとえば肉体を描こうとしながら、観念的にしか肉体・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫