・・・ただ身体中の毛穴から暖かい日光を吸い込んで、それがこのしなびた肉体の中に滲み込んで行くような心持をかすかに自覚しているだけであった。 ふと気がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙が落ちている。それはまだ新しい、ちっとも汚れ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・ても電車や汽車やバスでどこまででも行けるではないかと云われるが、しかしそういう好季節の好天気の休日の交通機関に乗ってゆっくり腰をかけられるチャンスは少ないし、腰かけられたとしても、車内の混雑に起因する肉体的ならびに精神的の苦痛は、目的地の自・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・「身を殺して魂を殺す能わざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えらえたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・わたくしは演劇及オペラの如き芸術家の肉体と肉声とを必須となす芸術は、必其の作者と人種を同じくする者によって演ぜられる事を望んでいる。カルメンの完全なる演出は仏蘭西人を俟たねばならぬが如く、トリスタンは独逸人でなければならぬであろう。わたくし・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・この涼しき鈴の音が、わが肉体を貫いて、わが心を透して無限の幽境に赴くからは、身も魂も氷盤のごとく清く、雪甌のごとく冷かでなくてはならぬ。太織の夜具のなかなる余はいよいよ寒かった。 暁は高い欅の梢に鳴く烏で再度の夢を破られた。この烏はかあ・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・彼がこの文章の形式を選んだのは、一つには彼の肉体が病弱で、体系を有する大論文を書くに適しなかつた為もあらうが、実にはこの形式の表現が、彼のユニイクな直覚的の詩想や哲学と適応して居り、それが唯一最善の方法であつたからである。アフォリズムとは、・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・蓋し廃藩以来、士民が適として帰するところを失い、或はこれがためその品行を破て自暴自棄の境界にも陥るべきところへ、いやしくも肉体以上の心を養い、不覊独立の景影だにも論ずべき場所として学校の設あれば、その状、恰も暗黒の夜に一点の星を見るがごとく・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・知識階級の若い聰明な女性が、そのすこやかな肉体のあらゆる精力と、精神の活力の全幅をかたむけて、兇暴なナチズムに対して人間の理性の明るさをまもり、民主精神をまもったはたらきぶりは、私たち日本の知識階級の女性に、自分たちの生の可能について考えさ・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・ 彼の肉体に植物の繁茂し始めた歴史の最初は、彼の雄図を確証した伊太利征伐のロジの戦の時である。彼の眼前で彼の率いた一兵卒が、弾丸に撃ち抜かれて顛倒した。彼はその銃を拾い上げると、先登を切って敵陣の中へ突入した。彼に続いて一大隊が、一聯隊・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・あるいは我々人間の持っているこの肉体。――すべて我々に最も近い存在物が、彼らに対して、「そこに在ることの不思議さ」を、「その測り知られぬ美しさ」を、描かれることを要求する。従って彼らは、いかなる描き方をする場合にも、写実的な態度を失わない。・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫