・・・幾分か乱されはしたものの、まだ彼の胸底には、さっきの満足の情が、暖く流れていたからであろう。「いや、そう云う訳ではございませんが、何かとあちらの方々に引とめられて、ついそのまま、話しこんでしまうのでございます。」「今も承れば、大分面・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・もし不愉快でも妻子のにおいがなお僕の胸底にしみ込んでいるなら、厭な菊子のにおいもまた永久に僕の心を離れまい。この後とても、幾多の女に接し、幾たびかそれから来たる苦しい味をあじわうだろうが、僕は、そのために窮屈な、型にはまった墓を掘ることが出・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・しかし、その二人を連れて来るという思いつきを豹吉に泛ばせる胸底には、たしかに雪子のことがあった。 一人で来るのにもはや照れていたのだろうか、それとも、いつもは一人で来るのに、今日はいきなりそんな連れと一緒に来たことで、雪子をあっと言わせ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ もちろん、おかみさんのその心意気を、ありがたく、うれしく思わぬわけではないのですが、しかしまた、胸底に於いていささか閉口の気もありました。 人道。 私は、お礼の言葉に窮しました。思案のあげく、私のいま持っているもので一ばん大事・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・みを尽すを以て極意となすが如きものなれば、この聖戦下に於いても最適の趣味ならんかと思量致し、近来いささかこの道に就きて修練仕り申候ところ、卒然としてその奥義を察知するにいたり、このよろこびをわれ一人の胸底に秘するも益なく惜しき事に御座候えば・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ないのだというより外はない。 この目・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・かくの如き文化性から生み出されるかという印象を与える雰囲気、画面の所謂芸術写真風な印画美であるが、私たち数人の観衆はこの文化映画として紹介されているもののつめたさに対して何か人間としてのむしゃくしゃが胸底に湧くのを禁じ得なかった。例えば児童・・・ 宮本百合子 「映画の語る現実」
・・・ 相当の空き腹で、相当に雨水のしみこんで来る靴で、少年たちが猶喜々としているとすれば、つまりは自分たちの胸底にあつく蠢いている自分たちの成長の可能への情熱の力によるのではないだろうか。そして、その可能性は具体的なものでなくてはならないの・・・ 宮本百合子 「今日の耳目」
・・・作者と作品と作品のつくられて来る現実という三つの関係へ、方向をつける必然の力として作者の胸底に湧き立って来るものも外ならぬモチーフであって、その生きた脈うつ道を辿って、作家は作品のなかに深々と腰をおろし、互の命を生き得るのである。 臍の・・・ 宮本百合子 「作家に語りかける言葉」
・・・ 自分たちの国からこしらえてやるものとしての情愛が、試写会に来ているあらゆる人々の胸底にめざまされてゆくような、そういう感情へのアッピールは、挨拶の言葉の中からも作品の世界からも迸って来なかった。 或るドイツの人が、「日本の女性」を・・・ 宮本百合子 「実感への求め」
出典:青空文庫