・・・この文字はマドレエヌ・スウルヂェエの手である。自分がイソダンで識っていた時は未亡人でいた美人である。それが自分のパリイに出たあとで再縁して、今ではマドレエヌ・ジネストと名告っている。スウルヂェエにしろ、ジネストにしろ、いずれも誰にも知られな・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・お前達が自分で真の泉の辺の真の花を摘んでいながら、己の体を取り巻いて、己の血を吸ったに違いない。己は人工を弄んだために太陽をも死んだ目から見、物音をも死んだ耳から聴くようになったのだ。己は何日もはっきり意識してもいず、また丸で無意識でもいず・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・様が犬の枕上に立たれて、一念発起の功徳に汝が願い叶え得さすべし、信心怠りなく勤めよ、如是畜生発菩提心、善哉善哉、と仰せられると見て夢はさめた、犬はこのお告に力を得て、さらば諸国の霊場を巡礼して、一は、自分が喰い殺したる姨の菩提を弔い、一は、・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ぼくは今に働いて自分で金をもうけてどこへでも行くんだ。ブラジルへでも行ってみせる。五月十二日、今日また人数を調べた。二十八人に四人足りなかった。みんなは僕だの斉藤君だの行かないので旅行が不成立になると云ってしきりに責めた。武田先・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 民主戦線の結成ということは、政治めいた言葉と響いているが、私たちは、自分たちの一生が又とくり返しようもない、いとおしいものであることを犇々と感じている。それがどんなに傷つき不具となっていようとも其故にこそ、ひとしお懐しい生れ故郷である・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・』 アウシュコルンはなぜそんな不審が自分の上にかかったものか少しもわからないので、もうはや懼れて、言葉もなく市長を見つめた。『わしがって、わしがその手帳は拾ったッて。』『そうだ、お前がよ。』『わしは誓います、わしはてんでそん・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・勿論自分が引合に出されている時には、一層切実に感ずるには違ない。 ルウズウェルトは「不公平と見たら、戦え」と世界中を説法して歩いている。木村はなぜ戦わないだろうか。実は木村も前半生では盛んに戦ったのである。しかしその頃から役人をしている・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・それは自分が後れたと云うことである。リンツマンの檀那はもう疾っくに金を製造所へ持って往って、職人に払ってしまっている。おまけに虚の財布を持って町へ帰っているのである。実に骨牌と云うものはとんだ悪い物である。あれをしていると、大切な事を忘れて・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 灸はふとまだ自分が御飯を食べていないことに気がついた。彼は直ぐ下へ降りていった。しかし、彼の御飯はまだであった。灸は裏の縁側へ出て落ちる雨垂れの滴を仰いでいた。「雨こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 河は濁・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・男は響の好い、節奏のはっきりしたデネマルク語で、もし靴が一足間違ってはいないかと問うた。 果して己は間違った靴を一足受け取っていた。男は自分の過を謝した。 その時己はこの男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫