・・・熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く失われてしまった。彼女は苦痛に等しい表情を顔に浮べながら、眼を閉じて前に倒れかかった。そこにはパオロの胸があるはずだ。その胸に抱き取られる時にクララは元のクララではなくなるべきはずだ。・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・こういう風に自分の感情や慾望を押えつけることを自制と言います。ピサゴラスの学徒は、人間はこの自制が少しでも多く出来れば出来るほど、それだけ神さまに近づくのだ、生がい完全な自制を以て突き通して来た人は、死んだ後には神さまになれる、その反対に、・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・故郷の雰囲気に触れると、まるで身体が、だるくなり、我儘が出てしまって、殆ど自制を失うのである。自分でも、おやおやと思うほど駄目になって、意志のブレーキが溶けて消えてしまうのである。ただ胸が不快にごとごと鳴って、全身のネジが弛み、どうしても気・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・教えてやろうか、と鳥渡、腰を浮かしかけたが、いやいやと自制した。ひょっとしたら、あの一団は、雑誌社か新聞社の人たちかも知れない。談話の内容が、どうも文学に無関心の者のそれでは無い。劇団関係の人たちかも知れない。あるいは、高級な読者かも知れな・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・しかもその修養のうちには、自制とか克己とかいういわゆる漢学者から受け襲いで、強いて己を矯めた痕迹がないと云う事を発見した。そうしてその幾分は学問の結果自らここに至ったものと鑑定した。また幾分は学問と反対の方面、すなわち俗に云う苦労をして、野・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・ インガは、予期しない光景に驚いている皆の前で自制を失わず、はっきりした声でルイジョフに迫った。「誰と? どこで?」 ドミトリーが、何か云おうとした。「どうしてあなたが出るんです? ドミトリー。私は何にも支持して貰うに及ばな・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・もし人民が、現在日本政府は武力をもっていないという公の建前を無視して動けば、政府は、連合国勢力に誇大的訴えとして、人民に自治自制する能力なし、と実証し、反動に一歩前進しようと試みるであろう。人民の力の表現である真に民主的な政党は、治安維持法・・・ 宮本百合子 「人民戦線への一歩」
・・・四月十五日過、二十日過、Yの或る仕事のきりがつく見込みがついたら、私共は遂に自制力を失った。仕様がない、何処から旅費が出るのよ、と困りつつ、嬉しさ一杯で私達が神戸迄の切符を買ってしまった。紅丸で別府へ行った。ここは予測の通り余り気に入らず、・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・の中で、ゴーリキイは自制した悲しみをもってこの頃を追懐している。「彼等の中の誰も私のところに、仕事場に来てくれるものはなく、私は一昼夜十四時間も仕事をしているので、普通の日にはデレンコフの所へ行くことが出来なかった。休みの日には或は眠り、或・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫