・・・されども渠はその職掌を堅守するため、自家が確定せし平時における一式の法則あり。交番を出でて幾曲がりの道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と。情のために道を迂回し、あるいは疾走し、緩歩し、立停するは、職務に尽くすべき責任に・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ こんな調子で余は岡村に、君の資格を以てして今から退隠的態度をとるは、余りに勇気に乏しく、資格ある人士の義務から考えても、自家将来の幸福を求むる点から考えても、決して其道でないと説いた。岡村は冷かに笑って、君の云うことは尤もだけれど、僕・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・この家の二、三年前までは繁盛したことや、近ごろは一向客足が遠いことや、土地の人々の薄情なことや、世間で自家の欠点を指摘しているのは知らないで、勝手のいい泣き言ばかりが出た。やがてはしご段をあがって、廊下に違った足音がすると思うと、吉弥が銚子・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 椿岳の画はかくの如く淵原があって、椿年門とはいえ好む処のものを広く究めて尽く自家薬籠中の物とし、流派の因襲に少しも縛られないで覚猷も蕪村も大雅も応挙も椿年も皆椿岳化してしまった。かつかくの如く縦横無礙に勝手気儘に描いていても、根柢には・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・果せる哉、鴎外は必定私が自己吹聴のため、ことさらに他人の短と自家の長とを対比して書いたものと推断して、怫然としたものと見える。 その次の『柵草紙』を見ると、イヤ書いた、書いた、僅か数行に足らない逸話の一節に対して百行以上の大反駁を加えた・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 驚いた顔へぐっと寄って来て、「――それもあんた、自家製の特効薬でしてね。わたしが調整してるんですよ」「――そいつア、また。……ものによっては、一服寄進にあずかってもよいが、いったい何に効くんだい?」「――肺病です。……あき・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・調子に乗っているのは、自家薬籠中の人物を処女作以来の書き馴れたスタイルで書いているからであろう。自身放浪的な境遇に育って来た私は、処女作の昔より放浪のただ一色であらゆる作品を塗りつぶして来たが、思えば私にとって人生とは流転であり、淀の水車の・・・ 織田作之助 「世相」
・・・「自家の兄さんはいつ見ても若い。ちっとも老けないところを見ると、お釈迦様という人もそうだったそうだが、自家の兄さんもつまりお釈迦様のような人かもしれないねえ。ヒヒヒ」こういった調子で、耕吉の病人じみた顔をまじまじと見ては、老父は聴かされ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・――彼は自家でカナリヤを飼っていたことがある。 美しい午前の日光が葉をこぼれている。笹鳴きは口の音に迷わされてはいるが、そんな場合のカナリヤなどのように、機微な感情は現わさなかった。食欲に肥えふとって、なにか堅いチョッキでも着たような恰・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・「オイオイ、他人を悪口する前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」と上村が切り込んだ。「堕落? 堕落たア高い処から低い処へ落ちたことだろう、僕は幸にして最初から高い処に居ないからそんな外見ないことはしないんだ! 君なんか・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫