・・・従って臭気も甚だしゅうございますゆえ、御検分はいかがでございましょうか?」 しかし家康は承知しなかった。「誰も死んだ上は変りはない。とにかくこれへ持って参るように。」 正純はまた次ぎの間へ退き、母布をかけた首桶を前にいつまでもじ・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・ 保吉の靴はいつのまにかストオヴの胴に触れていたと見え、革の焦げる臭気と共にもやもや水蒸気を昇らせていた。「それも君、やっぱり伝熱作用だよ。」 宮本は眼鏡を拭いながら、覚束ない近眼の額ごしににやりと保吉へ笑いかけた。 ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・ 怪しき臭気、得ならぬものを蔽うた、藁も蓆も、早や路傍に露骨ながら、そこには菫の濃いのが咲いて、淡いのが草まじりに、はらはらと数に乱れる。 馬の沓形の畠やや中窪なのが一面、青麦に菜を添え、紫雲英を畔に敷いている。……真向うは、この辺・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・座にその鰯の臭気のない内、言わねばならぬ事がある……「あの、平さん。」 と織次は若々しいもの言いした。「此家に何だね、僕ン許のを買ってもらった、錦絵があったっけね。」「へい、錦絵。」と、さも年久しい昔を見るように、瞳を凝と上・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・日本橋一丁目で降りて、野良犬や拾い屋が芥箱をあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭い臭気が漂うている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良い香いがした。 山椒昆布を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・それにこの恐ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ……これで明日明後日となったら――ええ思遣られる。今だって些ともこうしていたくはないけれど、こう草臥ては退くにも退かれぬ。少し休息したらまた旧処へ戻ろう。幸いと風を後にしているから、臭・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・縁端から、台所に出て真闇の中をそっと覗くと、臭気のある冷たい空気が気味悪く顔を掠めた。敷居に立って豆洋燈を高くかかげて真闇の隅々を熟と見ていたが、竈の横にかくれて黒い風呂敷包が半分出ているのに目が着いた。不審に思い、中を開けて見ると現われた・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・風呂でいくら洗っても、その変な臭気は皮膚から抜けきらなかった。 もとは、小屋も小さく、頭数も少なくって、母が一人で世話をしていたものだった。親爺は主に畠へ行っていた。健二は、三里ほど向うの醤油屋街へ働きに出ていた。だが、小作料のことから・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・そのあたりからは、植物性の物質が腐敗して発する吐き出したいような臭気が立ち上ってきた。最初、彼は、堪えられなかったものだが、日を経るうちに、馴れてきて、さほどに感じなくなった。それに従って、彼の身体には、知らず知らず醤油の臭いがしみこんでき・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・焼味噌の塩味香気と合したその辛味臭気は酒を下すにちょっとおもしろいおかしみがあった。 真鍮刀は土耳古帽氏にわたされた。一同はまたぶらぶらと笑語しながら堤上や堤下を歩いた。ふと土耳古帽氏は堤下の田の畔へ立寄って何か採った。皆々はそれを受け・・・ 幸田露伴 「野道」
出典:青空文庫