・・・――落目もこうなると、めったに手紙なんぞ覗いた事のないのに、至急、と朱がきのしてあったのを覚えています。ご新姐あてに、千葉から荷が着いている。お届けをしようか、受取りにおいで下さるか、という両国辺の運送問屋から来たのでした。 品物といえ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 二十四日の晩であった、母から手紙が来て、明二十五日の午後まかり出るから金五円至急に調達せよと申込んで来た時、自分は思わず吐息をついて長火鉢の前に坐ったまま拱手をして首を垂れた。「どうなさいました?」と病身な妻は驚いて問うた。「・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ ところで大津法学士は何でも至急に結婚して帰京の途中を新婚旅行ということにしたいと申出たので大津家は無論黒田家の騒動は尋常でない。この両家とも田舎では上流社会に位いするので、祝儀の礼が引きもきらない。村落に取っては都会に於ける岩崎三井の・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・騎兵ゆき過ぎんとして、後なる馬上の、年若き人、言葉に力を入れ『……に候間至急、「至急」という二字は必ず加えざるべからず』と言うや、前なる騎兵、『無論、無論……』と答えつ、青年の耳たてし時は二騎の姿すでに木立ちにかくれて笑う声のみ高く聞こえた・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・そして名宛の左側の、親展とか侍曹とか至急とか書くべきところに、閑事という二字が記されてあった。閑事と表記してあるのは、急を要する用事でも何んでも無いから、忙がしくなかったら披いて読め、他に心の惹かれる事でもあったら後廻しにしてよい、という注・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ただいま友人、大隅忠太郎君から、結納ならびに華燭の典の次第に就き電報を以て至急の依頼を受けましたが、ただちに貴門を訪れ御相談申上げたく、ついては御都合よろしき日時、ならびに貴門に至る道筋の略図などをお示し下さらば幸甚に存じます、と私も異様に・・・ 太宰治 「佳日」
・・・一本呑むと酔って来て、つぎの一本を大至急たのんだ。女の人は、さからわず、はいはいと言って持って来た。ずいぶん呑んでしまった。お勘定は、十三円あまりであった。いまでも、その金高は、ちゃんと覚えている。私が、もそもそしたら、女の人は、ええわ、え・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・鶴がいたなら、大至急、三鷹へ寄こしてくれるようにという電話なんだ。急病人でも出来たんじゃないか? ところがお前は欠勤で、寮にも帰って来ないし、森ちゃんも心当りが無いと言うし、とにかくきょうは三鷹へ行って見ろ。ただ事でないような兄さんの口調だ・・・ 太宰治 「犯人」
・・・家に遺伝の遺産ある者、又高運にして新に家を成したる者、政府の官吏、会社の役人、学者も医者も寺の和尚も、衣食既に足りて其以上に何等の所望と尋ぬれば、至急の急は則ち性慾を恣にするの一事にして、其方法に陰あり陽あり、幽微なるあり顕明なるあり、所謂・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ゆえに今、我が邦にて洋学校を開くは、至急のまた急なるものにて、なお衣食の欠くべからざるが如し。公私の財を費すも愛むにいとまあらず。一、学問は、高上にして風韻あらんより、手近くして博きを貴しとす。かつまた天下の人、ことごとく文才を抱くべき・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
出典:青空文庫