・・・ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりのないさびしさに迫られたことであろう。 大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧院の鐘の音と、鵠の声とに暮れて・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・私はこの意外な答に狼狽して、思わず舷をつかみながら、『じゃ君も知っていたのか。』と、際どい声で尋ねました。三浦は依然として静な調子で、『君こそ万事を知っていたのか。』と念を押すように問い返すのです。私『万事かどうかは知らないが、君の細君と楢・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・人一倍体の逞しいSは珍しい日の光を浴びたまま、幅の狭い舷梯を下って行った。すると仲間の水兵が一人身軽に舷梯を登りながら、ちょうど彼とすれ違う拍子に常談のように彼に声をかけた。「おい、輸入か?」「うん、輸入だ。」 彼等の問答はA中・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・ 私は弁当を仕舞ってから、荷船オデッサ丸の舷にぴったりと繋ってある大運搬船の舷に、一人の仲間と竝んで、海に向って坐って居た。仲間と云おうか親分と云おうか、兎に角私が一週間前此処に来てからの知合いである。彼の名はヤコフ・イリイッチと云って・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・だぶりだぶり舷さ打つ波も船も、黄色だよ。それでな、姉さん、金色になって光るなら、金の船で大丈夫というもんだが、あやかしだからそうは行かねえ。 時々煙のようになって船の形が消えるだね。浪が真黒に畝ってよ、そのたびに化物め、いきをついてまた・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ が、鬼神の瞳に引寄せられて、社の境内なる足許に、切立の石段は、疾くその舷に昇る梯子かとばかり、遠近の法規が乱れて、赤沼の三郎が、角の室という八畳の縁近に、鬢の房りした束髪と、薄手な年増の円髷と、男の貸広袖を着た棒縞さえ、靄を分けて、は・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・と繰返したが、聞くものの魂が舷のあたりにさまようような、ものの怪が絡ったか。烏が二声ばかり啼いて通った。七兵衛は空を仰いで、「曇って来た、雨返しがありそうだな、自我得仏来所経、」となだらかにまた頓着しない、すべてのものを忘れたという音調・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ と連立って寄る、汀に居た玉野の手には、船首へ掛けつつ棹があった。 舷は藍、萌黄の翼で、頭にも尾にも紅を塗った、鷁首の船の屋形造。玩具のようだが四五人は乗れるであろう。「お嬢様。おめしなさいませんか。」 聞けば、向う岸の、む・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・びしゃりびしゃり、ばちゃばちゃと、舷で黒いものが縺れて泳ぐ。」「鼠。」「いや、お待ち下さい、人間で。……親子は顔を見合わせたそうですが、助け上げると、ぐしょ濡れの坊主です。――仔細を聞いても、何にも言わない。雫の垂る細い手で、ただ、・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・もやい綱が船の寝息のようにきしり、それを眠りつかせるように、静かな波のぽちゃぽちゃと舷側を叩く音が、暗い水面にきこえていた。「××さんはいないかよう!」 静かな空気を破って媚めいた女の声が先ほどから岸で呼んでいた。ぼんやりした燈りを・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫