・・・並み木の槐は花盛りだった。運河の水明りも美しかった。しかし――今はそんなことに恋々としている場合ではない。俺は昨夜もう少しで常子の横腹を蹴るところだった。……「十一月×日 俺は今日洗濯物を俺自身洗濯屋へ持って行った。もっとも出入りの洗濯・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの夾竹桃は、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさを漂わしていた。 壁際の籐椅子に倚った房子は、膝の三毛猫をさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、物憂そうな視線を遊ばせていた・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・彼女の前にあった新聞は花盛りの上野の写真を入れていた。彼女はぼんやりこの写真を見ながら、もう一度番茶を飲もうとした。すると番茶はいつの間にか雲母に似たあぶらを浮かせていた。しかもそれは気のせいか、彼女の眉にそっくりだった。「…………」・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・忠君愛国仁義礼智などと直接なんらの交渉をも持たない「瓜や茄子の花盛り」が高唱され、その終わりにはかの全く無意味でそして最も平民的なはやしのリフレインが朗々と付け加えられたのである。私はその時なんという事なしに矛盾不調和を感ずる一方では、また・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・なるほど珍らしいに相違ない、この正月に顔を合せたぎり、花盛りの今日まで津田君の下宿を訪問した事はない。「来よう来ようと思いながら、つい忙がしいものだから――」「そりゃあ、忙がしいだろう、何と云っても学校にいたうちとは違うからね、この・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・家を出でて土筆摘むのも何年目病床を三里離れて土筆取 それから更に嬉しかったことは、その次の日曜日にまた碧梧桐が家族と共に向島の花見に行くというので、母が共に行かれたことである。花盛りの休日、向島の雑鬧は思いやられるので、・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・五月の末に此方に来た時は、紫紅色の房々としたライラックがまだ蕾勝ちで、素朴な林檎の花盛りでございました。其からぐんぐんと延び育った熾な夏は僅か二箇月でもう褪せようと仕て居ります。私が大きな楡の樹蔭の三階で、段々近眼に成りながら、緩々と物を書・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・それに対して、彼が最も理想とする完全な個人主義の花盛りにまでは、人類として、歴史的にまだ多くの忍耐と時間とを要するとしても、既にその可能は見とおされている新社会の民衆の個性の発展の本質的意味を、明瞭に描き出し、横行している強権に対立するもの・・・ 宮本百合子 「ジイドとそのソヴェト旅行記」
・・・三色菫の花盛りだ。赤っぽい小砂利が綺麗にしきつめられ、遠くの木立まですきとおる静寂が占めている。木立の上で、緑、黄、卵色をよりまぜた有平糖細工みたいなビザンチン式教会のふくらんだ屋根が、アジア的な線でヨーロッパ風な空をつんざいている。 ・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・一年生として入学した年の夏、その丘の下いっぱいが色とりどりの罌粟の花盛りで、美しさに恍惚としたことがあった。それ以来、そこは私をそっと誘いよせる場所になって、よくそこへも本をもって行ってよんだ。落葉の匂い、しっとりとした土の匂い、日のぬくも・・・ 宮本百合子 「青春」
出典:青空文庫