・・・「若旦那様、御電話でございます。」 洋一はやはり手をついたまま、声のする方を振り返った。美津は袂を啣えながら、食卓に布巾をかけていた。電話を知らせたのはもう一人の、松と云う年上の女中だった。松は濡れ手を下げたなり、銅壺の見える台所の・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・年増は時々金切声に、「若旦那」と相手の町人を呼んだ。そうして、――穂積中佐は舞台を見ずに、彼自身の記憶に浸り出した。柳盛座の二階の手すりには、十二三の少年が倚りかかっている。舞台には桜の釣り枝がある。火影の多い町の書割がある。その中に二銭の・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・そうして是非一度若旦那に御目にかかって、委細の話をしたいのだが、以前奉公していた御店へ、電話もまさかかけられないから、あなたに言伝てを頼みたい――と云う用向きだったそうです。逢いたいのは、こちらも同じ思いですから、新蔵はほとんど送話器にすが・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・膚に着たのが、馬ふんの燃える夜の陽炎、ふかふかと湯気の立つ、雁もどきと、蒟蒻の煮込のおでんの皿盛を白く吐く息とともに、ふうと吹き、四合壜を片手に提げて「ああ敷居が高い、敷居が高い、階子段で息が切れた。若旦那、お久しゅう。てれかくしと、寒さ凌・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・この土地の芸妓でね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。」「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」「若い人だ、活きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。」「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」「・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・『イヤこれは驚いた、そんなら早い話がお絹さんお常さんどちらでもよい、吉さんのところへ押しかけるとしたらどんな者だろう』と、神主の忰の若旦那と言わるるだけに無遠慮なる言い草、お絹は何と聞きしか『そんならわたしが押しかけて行こうか、吉さ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・』『若旦那。』 文造は驚いて振り向いた。僕が手に一通の手紙を持って後背に来ていた。手紙を見ると、梅子からのである。封を切らないうちにもうそれと知って、首を垂れてジッとすわッて、ちょうど打撃を待っているようである。ついに気を引きたてて・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・彼女は、それぞれ試験がすんで帰ってくる坊っちゃん達を迎えに行っている庄屋の下婢や、醤油屋の奥さんや、呉服屋の若旦那やの眼につかぬように、停車場の外に立って息子を待っていた。彼女は、自分の家の地位が低いために、そういう金持の間に伍することが出・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・の当坐の謎俊雄は至極御同意なれど経験なければまだまだ心怯れて宝の山へ入りながらその手を空しくそっと引き退け酔うでもなく眠るでもなくただじゃらくらと更けるも知らぬ夜々の長坐敷つい出そびれて帰りしが山村の若旦那と言えば温和しい方よと小春が顔に花・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・いずれは、ゆいしょ正しき煙管屋の若旦那。三代つづいた鰹節問屋の末っ子。ちがいますか? くだんの新内、薄化粧の小さな顔をにゅっと近よせ、あたりはばかるひそひそ声で、米屋、米屋、と囁いた。そこへ久保田万太郎があらわれた。その店の、十の電燈のうち・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫