・・・おまけに腹がへって、どうにも足がすすまなくなって、洞庭湖畔の呉王廟の廊下に這い上って、ごろりと仰向に寝ころび、「あああ、この世とは、ただ人を無意味に苦しめるだけのところだ。乃公の如きは幼少の頃より、もっぱら其の独りを慎んで古聖賢の道を究め、・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ もうこれ以上、私を苦しめるのは、やめて下さい。イエスですか、ノオですか。それを、それだけを、今夜はっきり答えて下さい。あら、あなたは、お酒を飲んでいるのね。 飲みました。もう、この数日間、私は酒ばかり飲んでいます。数枝さん、これも・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・なんのためにそんな事をして小さな生物を苦しめるかというような事は少しも考えてはいなかった。それでも虫の食物か何かのつもりで、むしり取った芝の葉をびんの中へ詰め込んで、それで虫は充分満足しているものと思っているらしかった。そのまま忘れて打っち・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・露子は人の気も知らずにまた同じ質問で苦しめる。「ああ何か急に御用が御出来なすったんだって」と御母さんは露子に代理の返事をする。「そう、何の御用なの」と露子は無邪気に聞く。「ええ、少しその、用があって近所まで来たのですから」とよう・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・僕のような有徳の君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な輩は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十把一とからげにして、阿蘇の噴火口から真逆様に地獄の下へ落しちまったら」「今に落と・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 自分が、それを返す余地がないと知って、余計に見込んで苦しめる様な事をするお金も堪らなく憎らしかった。 話下手な栄蔵は、お金などを云いくるめる舌はとうていないので、否応なしに、お金がやめるまで、じいっとして聞いて居なければならなかっ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・杉浦啓一は力づよい、飾りない言葉で第四年目の三・一五を記念し、ブルジョア・地主のひどい政府が、どんなに党員たちを苦しめるか、死ねがしに扱うか、いやいや現に党員の誰とかを警察のコンクリートの床になげつけて殺した事実をあげて、政治犯人即時釈放を・・・ 宮本百合子 「共産党公判を傍聴して」
・・・このことは、或る場合、現在のような時期には、複雑な内容で彼女を苦しめることも、私にはよく理解されるように思う。プロレタリア作家として窪川稲子は、作品の或る情趣とか、リリカルな効果とかそんなものでは安心しない深く真面目な芸術家としての感覚をも・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・社会事情はその人間的なものを苦しめるし、傷ける。よろこんで働ける場合が本当に少い。そこから、職業は生活のため、人間としての心持のはけどころとして他に何か、と別に仕事を目で追い求めてゆくのでしょう。だが、彼女たちの経済力と時間と精力とが、はた・・・ 宮本百合子 「現実の道」
・・・ 王様は、絶対無二、尊厳であり偉大であり完全でありたかったのに、不仕合わせな耳が彼を苦しめる種となったので、悪口、批評の根絶やしをしたくて、皆の耳を自分と同じようにさせて、ホッと安心しました。ほんとにこれなら、先ず大丈夫と思っていたので・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
出典:青空文庫