・・・彼はそう云う苦痛の中にも、執念く敵打の望を忘れなかった。喜三郎は彼の呻吟の中に、しばしば八幡大菩薩と云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・上品で端麗な若い青年の肉体が近寄るに従って、クララは甘い苦痛を胸に感じた。青年が近寄るなと思うとクララはもう上気して軽い瞑眩に襲われた。胸の皮膚は擽られ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押出された。胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・この犬のためにはまだ摩られるのが、打たれるように苦痛なのであった。 次第にクサカの心持が優しくなった。「クサカ」と名を呼ばれる度に何の心配もなく庭に走り出るようになった。クサカは人の持物になった。クサカは人に仕えるようになった。犬の身に・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・あんな荷物をどっさり持って、毎日毎日引越して歩かなくちゃならないとなったら、それこそ苦痛じゃないか。A 飯のたんびに外に出なくちゃならないというのと同じだ。B 飯を食いに行くには荷物はない。身体だけで済むよ。食いたいなあと思った時、・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ が、ただここに、あらゆる罪科、一切の制裁の中に、私が最も苦痛を感ずるのは、この革鞄と、袖と、令嬢とともに、私が連れられて、膝行して当日の婿君の前に参る事です。 絞罪より、斬首より、その極刑をお撰びなさるが宜しい。 途中、田畝道・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・それは何の苦もなくいわば余分の収入として得たるものとはいえ、万という金を惜しげもなく散じて、僕らでいうと妻子と十日の間もあい離れているのはひじょうな苦痛である独居のさびしみを、何の苦もないありさまに振舞うている。そういう君の心理が僕のこころ・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・これを耐え忍ぶのは、僕がこれまで見せて来た快濶の態度に対しても、実に苦痛であった。しかし、その当面の苦痛はすぐ取れた。と言うのは、青木がすぐ立ちあがって、二階の方へ行ったからであるが、立ちあがった時、かたわらの吉弥に目くばせをしたので、吉弥・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・、軽イトイエバ軽イ、ドチラニモナリマスノデ、カノ本復スルカト思エバ全快スノ方ノ組デス、当所へ参リマス前、凡ソ半年ホドヲ鵠沼ニ辛棒シテオリマシタガ、無論ドットネテイルトイウデハアリマセズ、ソレガカエッテ苦痛デハアリマスガ、昨今デハマズマズ健康・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・しかも、人が苦しみを経験し、若しくは苦痛を経験し、若しくは生活上の奮闘を余儀なくされている場合、社会の同情、博愛、慈善事業、宗教家等に依って救うということは何時まで経ってもその人間に本当の霊を見せずにしまうものである。極端なる苦痛は最後に確・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・そして、ひきつるような苦痛の皺があとに残ったので、びっくりして男の顔を見ていると、男はきっとした眼で私をにらみつけた。 しかし、彼はすぐもとの、鈍重な、人の善さそうな顔になり、「肺やったら、石油を飲みなはれ。石油を……」 意外な・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫