・・・ いろいろのことを思って、茫然としていましたからすは、不意に石が飛んできたので、びっくりして立ち上がりました。そして、木の枝に止まって下をながめますと、子供らは、なお自分を目がけて石を投げるのであります。 からすはしかたなく、その社・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・ 次の日奥の一室にて幸衛門腕こまぬき、茫然と考えているところへお絹在所より帰り、ただいまと店に入ればお常はまじめな顔で『叔父さんが奥で待っていなさるよ、何か話があるって。』お絹にも話あり、いそいそと中庭から上がれば叔父の顔色ただ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・日はとっぷり暮れたが月はまだ登らない、時田は燈火も点けないで片足を敷居の上に延ばし、柱に倚りかかりながら、茫然外面をながめている。『先生!』梅ちゃんの声らしい、時田は黙って返事をしない。『オヤいないのだよ』と去ってしまった、それから五分・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 坑夫等は、しばらく、そこに茫然と立っていた。 川下の、橋の上を、五六台の屋根のあるトロッコが、検査官や、役員をのせてくだって行くのが、坑口から見えた。トロッコは、山を下ることが愉快であるかのように、するすると流れるように線路を、辷・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・お浪もこの夙く父母を失った不幸の児が酷い叔母に窘められる談を前々から聞いて知っている上に、しかも今のような話を聞いたのでいささか涙ぐんで茫然として、何も無い地の上に眼を注いで身動もしないでいた。陽気な陽気な時節ではあるがちょっとの間はしーん・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・今思えば真実に夢のようなことでまるで茫然とした事だが、まあその頃はおれの頭髪もこんなに禿げてはいなかったろうというものだし、また色も少しは白かったろうというものだ。何といっても年が年だから今よりはまあ優しだったろうさ、いや何もそう見っともな・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ そこまで思いつづけて行くと、おげんは独りで茫然とした。それからの彼女が自分の側に見つけたものは、次第に父に似て行く兄の方の子であり、まだこの世へも生れて来ないうちから父によって傷けられた妹の方の子であったから。 回想はある都会風の・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ そこまで考えて行くと、お三輪は茫然としてしまった。 単調な機場の機の音は毎日のようにお三輪の針仕事する部屋まで聞えて来ていた。お三輪はその音を聞きながら、東京の方にいる新七のために着物を縫った。亡くなった母のことが頻りに恋しく思い・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ 油地獄にも、ならずものの与兵衛とかいう若い男が、ふとしたはずみで女を、むごたらしく殺してしまって、その場に茫然立ちつくしていると、季節は、ちょうど五月、まちは端午の節句で、その家の軒端の幟が、ばたばたばたばたと、烈風にはためいている音・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手・・・ 太宰治 「走れメロス」
出典:青空文庫