・・・ 亀やんは毎朝北田辺から手ぶらで出てきて河堀口の米屋に預けてある空の荷車を受けとると、それを引っぱって近くの青物市場へ行き、仕入れた青物つまり野菜類をその車に載せて、石ヶ辻や生国魂方面へかけて行商します。私はその米屋の二階に三畳を間借り・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 新助は仲仕を働き、丹造もまた物心つくといきなり父の挽く荷車の後押しをさせられたが、新助はある時何思ったか、丹造に、祖先の満右衛門のことを語ってきかせた。 兄姉の誰もがまだ知らなかったこの話を、とくにえらんで末子の自分に語ってくれた・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・その牛は荷車を牽く運送屋の牛であった。荷物を配達先へ届けると同時に産気づいて、運送屋や家の人が気を揉むうちに、安やすと仔牛は産まれた。親牛は長いこと、夕方まで休息していた。が、姑がそれを見た頃には、蓆を敷き、その上に仔牛を載せた荷車に、もう・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・空車荷車の林を廻り、坂を下り、野路を横ぎる響。蹄で落葉を蹶散らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高に話しながらゆく村の者のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・間を家鶏の一群れゆききし、もし五月雨降りつづくころなど、荷物曳ける駄馬、水車場の軒先に立てば黒き水は蹄のわきを白き藁浮かべて流れ、半ば眠れる馬の鬣よりは雨滴重く滴り、その背よりは湯気立ちのぼり、家鶏は荷車の陰に隠れて羽翼振るうさまの鬱陶しげ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 板壁の釘が腐って落ちかけた木造の家に彼等は住んでいた。屋根は低かった。家の周囲には、藁やごみを散らかしてあった。 処々に、うず高く積上げられた乾草があった。 荷車は、軒場に乗りつけたまま放ってあった。 室内には、古いテーブ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ こゝ半年ばかり、健二は、親爺と二人で豚飼いばかりに専心していた。荷車で餌を買いに行ったり、小屋の掃除をしたり、交尾期が来ると、掛け合わして仔豚を作ることを考えたり、毎日、そんなことで日を暮した。おかげで彼の身体にまで豚の臭いがしみこん・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・私たちは宿屋の離れ座敷にあった古い本箱や机や箪笥なぞを荷車に載せ、相前後して今の住居に引き移って来たのである。 今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆やを一人雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・車の轍で平らされているこの道を、いつも二輪の荷車を曳いて、面白げに走る馬もどこにも見えない。 河に沿うて付いている道には、規則正しい間隔を置いて植えた、二列の白楊の並木がある。白楊は、垂れかかっている白雲の方へ、長く黒く伸びている。その・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・この道は暗緑色の草が殆ど土を隠す程茂っていて、その上に荷車の通った輪の跡が二本走っている。 薄ら寒い夏の朝である。空は灰色に見えている。道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な平地に聳えている。丁度森が歩哨を出して、それを引・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫