・・・黄いろく色ついた稲、それにさし通った明るい夕日、どこか遠くを通って行く車の音、榛の木のまばらな影、それを見ると、そこに小林君がいて、そして私と同じようにしてやはり、その野の夕日を眺め、荷車の響きをきいているように思った。「悠々たる人生だ・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・細かく言えば高価なフィルムの代価やセットの値段はもちろん、ロケーションの汽車賃弁当代から荷車の代までも予算されなければならないのである。これを、詩人が一本の万年筆と一束の紙片から傑作を作りあげ、画家が絵の具とカンバスで神品を生み出すのと比べ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ 最初にハンブルグの一陋巷の屋根が現われ鵞鳥の鳴き声が聞こえ、やがて、それらの鵞鳥を荷車へ積み込む光景が現われる。次には、とある店先のショーウィンドウの鎧戸が引き上げられる、その音のガーガーと鵞鳥のガーガーが交錯する。そうしてこの窓にヒ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 生垣の間に荷車の通れる道がある。 道の片側は土地が高くなっていて、石段をひかえた寂しい寺や荒れ果てた神社があるが、数町にして道は二つに分れ、その一筋は岡の方へと昇るやや急な坂になり、他の一筋は低く水田の間を向に見える岡の方へと延長・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・荒布の前掛を締めた荷揚の人足が水に臨んだ倉の戸口に蹲踞んで凉んでいると、往来際には荷車の馬が鬣を垂して眼を細くし、蠅の群れを追払う元気もないようにじっとしている。運送屋の広い間口の店先には帳場格子と金庫の間に若い者が算盤を弾いていたが人の出・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・思いたまえ、余の車は両君の間に介在して操縦すでに自由ならず、ただ前へ出られるばかりと思いたまえ、しかるに出られべき一方口が突然塞ったと思いたまえ、すなわち横ぎりにかかる塗炭に右の方より不都合なる一輛の荷車が御免よとも何とも云わず傲然として我・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・「仙二さんが、荷車に乗せてってくれますってよ」 ……もう土間の隅では微に地虫が鳴いている。秋の日を眺めながら、荷車に乗ってゆくという沢や婆と坐っていると、植村の婆さんの心は妙に寂しくなって来た。彼女も、夫に死なれてから全くの一人身で・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・Y、小走りで先へゆく荷車に追いついたと思うと両手に下げてた鞄と書類入鞄を後から繩をかけた荷物の間へ順々に放りあげ、ひょいと一本後に出てる太い棒へ横のりになった。尻尾の長い満州馬はいろんな形の荷物と皮外套を着たYとをのっけて、石ころ道を行く。・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 二十七日、払暁荷車に乗りて鉄道をゆく。さきにのりし箱に比ぶれば、はるかに勝れり。固より撥条なきことは同じけれど、壁なく天井なきために、風のかよいよくて心地あしきことなし。碓氷嶺過ぎて横川に抵る。嶺の路ここかしこに壊れたるところ多かりし・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・街へ通う飛脚の荷車の上には破れた雨合羽がかかっていた。河には山から筏が流れて来た。何処かの酒庫からは酒桶の輪を叩く音が聞えていた。その日婦人はまた旅へ出ていった。「いろいろどうもありがとうこざいまして。」 彼女は女の子の手を持って灸・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫