・・・ 低地を距てて、谷に臨んだ日当りのいいある華族の庭が見えた。黄に枯れた朝鮮芝に赤い蒲団が干してある。――堯はいつになく早起きをした午前にうっとりとした。 しばらくして彼は、葉が褐色に枯れ落ちている屋根に、つるもどきの赤い実がつややか・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・が悪いのか、母と妹とが悪いのか、今更いうべき問題でもないが、ただ一の動かすべからざる事実あり曰く、娘を持ちし親々は、それが華族でも、富豪でも、官吏でも、商人でも、皆な悉く軍人を聟に持ちたいという熱望を持ていたのである。 娘は娘で軍人を情・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
一 何公爵の旧領地とばかり、詳細い事は言われない、侯伯子男の新華族を沢山出しただけに、同じく維新の風雲に会しながらも妙な機から雲梯をすべり落ちて、遂には男爵どころか県知事の椅子一にも有つき得ず、空しく・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・よく華族様方の御嬢様なぞにも、そういう風で、年をとって御了いなさる方が御有んなさいますそうですよ……それからあの人が、丁度あの位の奥様が御為にも宜しかろうかッて、そう申してますよ……尤も、こればかりは御縁で御座いますから」 こういう話を・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・いまはもう、華族もへったくれも無くなったようですが、終戦前までは、女を口説くには、とにかくこの華族の勘当息子という手に限るようでした。へんに女が、くわっとなるらしいんです。やっぱりこれは、その、いまはやりの言葉で言えば奴隷根性というものなん・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・「ええ。華族さんになって、それからお金持ちになるんですって。」 僕はすこし寒かった。足をこころもち早めた。一歩一歩あるくたびごとに、霜でふくれあがった土が鶉か梟の呟きのようなおかしい低音をたててくだけるのだ。「いや。」僕はわざと・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・そのうちに、あなたは、人におだてられて、これの母は華族でして、等とおっしゃるようになるのではないでしょうか。そら恐しい事でございます。先生ほどのおかたでも、あなたの全部のいんちきを見破る事が出来ないとは、不思議であります。世の中は、みんな、・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・ 信濃町の停留場は、割合に乗る少女の少ないところで、かつて一度すばらしく美しい、華族の令嬢かと思われるような少女と膝を並べて牛込まで乗った記憶があるばかり、その後、今一度どうかして逢いたいもの、見たいものと願っているけれど、今日までつい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・龍蹄砂ヲ蹴ツテ高蓋四輪、輾リ去ル者ハ華族ナリ。女児一群、紅紫隊ヲ成ス者ハ歌舞教師ノ女弟子ヲ率ルナリ。雅人ハ則紅袖翠鬟ヲ拉シ、三五先後シテ伴ヲ為シ、貴客ハ則嬬人侍女ヲ携ヘ一歩二歩相随フ。官員ハ則黒帽銀、書生ハ則短衣高屐、兵隊ハ則洋服濶歩シ、文・・・ 永井荷風 「上野」
・・・思出るがままにわたくしの知るものを挙れば、華族には榎本梁川がある。学者には依田学海、成島柳北がある。詩人には伊藤聴秋、瓜生梅村、関根癡堂がある。書家には西川春洞、篆刻家には浜村大、画家には小林永濯がある。俳諧師には其角堂永機、小説家には饗庭・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫