・・・もっとも今日は謹んで、酒は一滴も口にせず、妙に胸が閊えるのを、やっと冷麦を一つ平げて、往来の日足が消えた時分、まるで人目を忍ぶ落人のように、こっそり暖簾から外へ出ました。するとその外へ出た所を、追いすがるごとくさっと来て、おやと思う鼻の先へ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 惟うに、太平の世の国の守が、隠れて民間に微行するのは、政を聞く時より、どんなにか得意であろう。落人のそれならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさえ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、その都度、ハッと隠れ忍んで、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 一体こうした僻地で、これが源氏の畠でなければ、さしずめ平家の落人が隠れようという処なんで、毎度怪い事を聞きます。この道が開けません、つい以前の事ですが。……お待ち下さい……この浦一円は鰯の漁場で、秋十月の半ばからは袋網というのを曳きま・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・都からの落人でなければこんな風をしてはいない。すなわち上田豊吉である。 二十年ぶりの故郷の様子は随分変わっていた。日本全国、どこの城下も町は新しく変わり、士族小路は古く変わるのが例であるが岩――もその通りで、町の方は新しい建物もでき、き・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・昨年、彼が借衣までして恋人に逢いに行ったという、そのときの彼の自嘲の川柳を二つ三つ左記して、この恐るべきお洒落童子の、ほんのあらましの短い紹介文を結ぶことに致しましょう。落人の借衣すずしく似合いけり。この柄は、このごろ流行と借衣言い。その袖・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・森山の宿に入り給えば、宿の者共云いけるは、『今夜馬の足音繁く聞ゆるは、落人にやあるらん、いざ留めん』とて、沙汰人数多出でける中に、源内兵衛真弘と云う者、腹巻取って打ち懸け、長刀持ちて走り出でけるが、佐殿を見奉り、馬の口に取り附き、『落人をば・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・阿久の三味線で何某が落人を語り、阿久は清心を語った。銘々の隠芸も出て十一時まで大騒ぎに騒いだ。時は明治四十三年六月九日。 この時代には電車の中で職人が新聞をよむような事もなかったので、社会主義の宣伝はまだ深川の裏長屋には達していなか・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・討手でないのに、阿部が屋敷に入り込んで手出しをすることは厳禁であるが、落人は勝手に討ち取れというのが二つであった。 阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内を隈なく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。それから老若打ち・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・門番で米擣をしていた爺いが己を負ぶって、お袋が系図だとか何だとかいうようなものを風炉敷に包んだのを持って、逃げ出した。落人というのだな。秩父在に昔から己の内に縁故のある大百姓がいるから、そこへ逃げて行こうというのだ。爺いの背中で、上野の焼け・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
出典:青空文庫