・・・僕等は直接に芸術の中に居るのだから、塀の落書などに身を入れて見ることは無いよ。なるほど火の芸術と君は云うが、最後の鋳るという一段だけが君の方は多いネ。ご覧に入れるには割が悪い。」と打解けて同情し、場合によったら助言でも助勢でもしてやろう・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・一度、本を読むのに飽きたので、独房の壁の中を撫でまわして、落書を探がしたことがある。独房は警察の留置場とちがって、自分だけしか入っていないし、時々点検があるので、落書は殆んどしていない。然し、それでも俺はしばらくして、色んな隅ッこから何十と・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・指で窓ガラスに、人の横顔を落書して、やがて拭き消す。日が暮れて、車室の暗い豆電燈が、ぼっと灯る。私は配給のまずしい弁当をひらいて、ぼそぼそたべる。佃煮わびしく、それでも一粒もあますところ無くたべて、九銭のバットを吸う。夜がふけて、寝なければ・・・ 太宰治 「鴎」
・・・私はこの落書めいた一ひらの文反故により、かれの、死ぬるきわまで一定職に就こう、就こうと五体に汗してあせっていたという動かせぬ、儼たる証拠に触れてしまったからである。二、三の評論家に嘘の神様、道化の達人と、あるいはまともの尊敬を以て、あるいは・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・そうでなくても、子供が障子を破り、カーテンを引きちぎり、壁に落書などして、私はいつも冷や冷やしているのだ。ここは何としても、この親友の御機嫌を損じないように努めなければならぬ。あの三氏の伝説は、あれは修身教科書などで、「忍耐」だの、「大勇と・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・筆を執っても原稿用紙の隅に自分の似顔画を落書したりなどするだけで、一字も書けない。それでいて、そのひとは世にも恐ろしい或るひとつの小説をこっそり企てる。企てた、とたんに、世界じゅうの小説がにわかに退屈でしらじらしくなって来るのだ。それはほん・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・机の前に坐って傍の障子を見ると、姪がいつの間にか落書したのであろう、筆太に塗りつけた覚束ない人形の絵が、おどけた顔の横から両手を拡げている。何という罪のない絵だろうとしばらく眺めていたが、名状の出来ぬ暗愁が胸にこみあげて来て、外套のかくしに・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・枯枝を拾いて砂に嗚呼忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそうにもなし。ようよう立上がりて下流へ行く。河とは名ばかりの黄色き砂に水の気なくて、照りつく日のきらめく暑そうなり。川口に当りて海面鏡のごとく帆船・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・余はまた主人に壁の題辞の事を話すと、主人は無造作に「ええあの落書ですか、つまらない事をしたもんで、せっかく奇麗な所を台なしにしてしまいましたねえ、なに罪人の落書だなんて当になったもんじゃありません、贋もだいぶありまさあね」と澄ましたものであ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・唐門の剥落した朱の腰羽目に、墨でゴシック風の十字架の落書がしてあった。木庵の書、苑道生の十八羅漢の像などを蔵しているらしいが時間がおそくそれ等は見ず。 片側には仏具を商う店舗、右は寺々の高い石垣、その石垣を覆うて一面こまかい蔦が密生して・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫