・・・彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。 渋谷の金王桜の評判が、洗湯の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打の大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・僕はその顔を見た時に何とも言われぬ落莫を感じた。それは僕に親切だった友人の死んだ為と言うよりも、況や僕に寛大だった編輯者の死んだ為と言うよりも、寧ろ唯あの滝田君と言う、大きい情熱家の死んだ為だった。僕は中陰を過ごした今でも滝田君のことを思い・・・ 芥川竜之介 「滝田哲太郎氏」
・・・が、落莫たる人生も、涙の靄を透して見る時は、美しい世界を展開する。お君さんはその実生活の迫害を逃れるために、この芸術的感激の涙の中へ身を隠した。そこには一月六円の間代もなければ、一升七十銭の米代もない。カルメンは電燈代の心配もなく、気楽にカ・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・が、こう世の中が世智辛くなっては緑雨のような人物はモウ出まいと思うと何となく落莫の感がある。 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 誰かも云ったように、砂漠と苦海の外には何もない荒涼落莫たるユダヤの地から必然的に一神教が生れた。しかし山川の美に富む西欧諸国に入り込んだ基督教は、表面は一神でありながら内実はいつの間にか多神教に変化した。同時にユダヤ人の後裔にとっての・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
出典:青空文庫