・・・最後に先生の風采を凡人以上に超越させたものは、その怪しげなモオニング・コオトで、これは過去において黒かったと云う事実を危く忘却させるくらい、文字通り蒼然たる古色を帯びたものであった。しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾が、・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・ 夫人の面は蒼然として、「どうしても肯きませんか。それじゃ全快っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」 と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋を少し寛げつつ、玉のごとき胸部を顕わし、「さ、殺されても・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ この写真が、いま言った百人一首の歌留多のように見えるまで、御堂は、金碧蒼然としつつ、漆と朱の光を沈めて、月影に青い錦を見るばかり、厳に端しく、清らかである。 御厨子の前は、縦に二十間がほど、五壇に組んで、紅の袴、白衣の官女、烏帽子・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・それが貴方、着物も顔も手足も、稲光を浴びたように、蒼然で判然と見えました。」「可訝しいね。」「当然なら、あれとか、きゃッとか声を立てますのでございますが、どう致しましたのでございますか、別に怖いとも思いませんと、こう遣って。」 ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ いま辻町は、蒼然として苔蒸した一基の石碑を片手で抱いて――いや、抱くなどというのは憚かろう――霜より冷くっても、千五百石の女じょうろうの、石の躯ともいうべきものに手を添えているのである。ただし、その上に、沈んだ藤色のお米の羽織が袖・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・「それから山内の森の中へ来ると、月が木間から蒼然たる光を洩して一段の趣を加えていたが、母は我々より五歩ばかり先を歩るいていました。夜は更けて人の通行も稀になっていたから四辺は極めて静に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しゅう反響してい・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 鍋町の風月の二階に、すでにそのころから喫茶室があって、片すみには古色蒼然たるボコボコのピアノが一台すえてあった。「ミルクのはいったおまんじゅう」をごちそうすると言ったS君が自分を連れて行ったのがこの喫茶室であった。おまんじゅうはすなわ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・始めのうちは振動の問題や海の色の問題や、ともかくも見たところあまり先端的でない、新しがり屋に言わせれば、いわゆる古色蒼然たる問題を、自分だけはおもしろそうにこつこつとやっていた。しかし彼の古いティンダル効果の研究はいつのまにか現在物理学の前・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・流体力学の専門家はその古色蒼然たる基礎方程式を通してのみしか流体を見ないから、いつまでたってもその方程式に含まれていない種類の現象に目の明く日は来ない。 また物理学者は電子や原子の問題の追究に忙しくて、到底日常眼前の現象を省みる暇がない・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・こういうトピックスで逆毛立った高速度ジャズトーキーの世の中に、彼は一八五〇年代の学者の行なった古色蒼然たる実験を、あらゆる新しきものより新しいつもりで繰り返しているのであろう。そうして過去のベースを逆回りして未来のホームベースに到着する夢を・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
出典:青空文庫