・・・と一言答えたる、夫人が蒼白なる両の頬に刷けるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼を塞がんとはなさざりき。 と見れば雪の寒紅梅、血汐は胸よりつと流れて、さと白衣を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、い・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・、大蜈蚣のように胸前に畝って、突当りに牙を噛合うごとき、小さな黒塀の忍び返の下に、溝から這上った蛆の、醜い汚い筋をぶるぶると震わせながら、麸を嘗めるような形が、歴然と、自分が瞳に映った時、宗吉はもはや蒼白になった。 ここから認られたに相・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 蒼白になって、お町があとへ引いた。「お姥さん、見物をしていますよ。」 と鷹揚に、先代の邸主は落ついて言った。 何と、媼は頤をしゃくって、指二つで、目を弾いて、じろりと見上げたではないか。「無断で、いけませんでしたかね。・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白な顔をして、涙の目でなお笑った。「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」 妙齢だ。この箸がころんでも笑うものを、と憮然としつつ、駒下・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
豪放かつ不逞な棋風と、不死身にしてかつあくまで不敵な面だましいを日頃もっていた神田八段であったが、こんどの名人位挑戦試合では、折柄大患後の衰弱はげしく、紙のように蒼白な顔色で、薬瓶を携えて盤にのぞむといった状態では、すでに・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・それは、蒼白に、がく/\顎を慄わしている栗本だった。 看護卒は、負傷者にベッドを指定すると、あとの者を連れに、又、院庭へ出て行った。 さま/″\の溜息、呻き、訴える声、堪え難いしかめッ面などが、うつしこまれたように、一瞬に、病室に瀰・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・荒っぽい、活気のある男が、いつか、蒼白に坑夫病た。そして、くたばった。 三代目の横井何太郎が、M――鉱業株式会社へ鉱山を売りこみ、自身は、重役になって東京へ去っても、彼等は、ここから動くことができなかった。丁度鉱山と一緒にM――へ売り渡・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・そういう動作をしているお前の妹の顔は、お前が笑うような形容詞を使うことになるが、紙のように蒼白だった。しかし、それは本当にしっかりした、もの確かな動作だったよ。特高が入ってきて、妹を見ると、「よウ!」と云った。妹は唇のホンの隅だけを動かして・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・左翼思想が、そのころの学生を興奮させ、学生たちの顔が颯っと蒼白になるほど緊張していました。少年は上京して大学へはいり、けれども学校の講義には、一度も出席せず、雨の日も、お天気の日も、色のさめたレインコオト着て、ゴム長靴はいて、何やら街頭をう・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・たしかに、そのときにはそう思われた。蒼白痩削。短躯猪首。台詞がかった鼻音声。 酒が相当にまわって来たころ、僕は青扇にたずねたのである。「あなたは、さっき職業がないようなことをおっしゃったけれど、それでは何か研究でもしておられるのです・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
出典:青空文庫