・・・橋杭ももう痩せて――潮入りの小川の、なだらかにのんびりと薄墨色して、瀬は愚か、流れるほどは揺れもしないのに、水に映る影は弱って、倒に宿る蘆の葉とともに蹌踉する。 が、いかに朽ちたればといって、立樹の洞でないものを、橋杭に鳥は棲むまい。馬・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ しばらくすると、薄墨をもう一刷した、水田の際を、おっかな吃驚、といった形で、漁夫らが屈腰に引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌が居たら押えたそうに見える。丸太ぐるみ、どか落しで遁げた、たった今。……い・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 連り亘る山々の薄墨の影の消えそうなのが、霧の中に縁を繞らす、湖は、一面の大なる銀盤である。その白銀を磨いた布目ばかりの浪もない。目の下の汀なる枯蘆に、縦横に霜を置いたのが、天心の月に咲いた青い珊瑚珠のように見えて、その中から、瑪瑙の桟・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ どさどさ打まけるように雪崩れて総立ちに電車を出る、乗合のあわただしさより、仲見世は、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男女の姿。 風立つ中を群って、颯と大幅に境内から、広小路へ散りかかる。 きちがい日和の俄雨に、・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 水をたっぷりと注して、ちょっと口で吸って、莟の唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、誂えたようである。「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・幸助五六歳のころ妻の百合が里帰りして貰いきしその時粘りつけしまま十年余の月日経ち今は薄墨塗りしようなり、今宵は風なく波音聞こえず。家を繞りてさらさらと私語くごとき物音を翁は耳そばだてて聴きぬ。こは霙の音なり。源叔父はしばしこのさびしき音を聞・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・西の空は夕日の余光が水のように冴えて、山々は薄墨の色にぼけ、蒼い煙が谷や森の裾に浮いています、なんだかうら悲しくなりました。寺の鐘までがいつもとは違うように聞え、その長く曳く音が谷々を渡って遠く消えてゆくのを聞きましたら、急に母が恋しくなっ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・客はすることもないから、しゃんとして、ただぽかんと海面を見ていると、もう海の小波のちらつきも段と見えなくなって、雨ずった空が初は少し赤味があったが、ぼうっと薄墨になってまいりました。そういう時は空と水が一緒にはならないけれども、空の明るさが・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・その宗匠が「扇開けば薄墨の月」という付け句をしたのを、さすが宗匠はうまいと言ってひどく感心していたことを思い出すのである。前句は何であったか忘れてしまった。「赤い椿白い椿と落ちにけり」でも父の説に従えばなるほど「言うただけ」である。しか・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・窓の縁に頬杖をついたまま、何やら物思わしそうに薄墨色の空のかなたを見つめている。こめかみに貼った頭痛膏にかかるおくれ毛をなでつけながら、自分のほうを向いたが、軽くうなずいて片頬で笑った。 夕方母上は、あんまり内をあけてはというので、姉上・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
出典:青空文庫