・・・すると薄汚い支那人が一人、提籃か何かをぶら下げたなり、突然僕の目の下からひらりと桟橋へ飛び移った。それは実際人間よりも、蝗に近い早業だった。が、あっと思ううちに今度は天秤捧を横たえたのが見事に又水を跳り越えた。続いて二人、五人、八人、――見・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・この薄汚いカアキイ服に、銃剣を下げた兵卒の群は、ほとんど看客と呼ぶのさえも、皮肉な感じを起させるほど、みじめな看客に違いなかった。が、それだけまた彼等の顔に、晴れ晴れした微笑が漂っているのは、一層可憐な気がするのだった。 将軍を始め軍司・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・僕はいつかイタリアのファッショは社会主義にヒマシユを飲ませ、腹下しを起こさせるという話を聞き、たちまち薄汚いベンチの上に立った僕自身の姿を思い出したりした。のみならずファッショの刑罰もあるいは存外当人には残酷ではないかと考えたりした。・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・しかしもう隅々には薄汚いカンヴァスを露していた。僕は膠臭いココアを飲みながら、人げのないカッフェの中を見まわした。埃じみたカッフェの壁には「親子丼」だの「カツレツ」だのと云う紙札が何枚も貼ってあった。「地玉子、オムレツ」 僕はこう云・・・ 芥川竜之介 「歯車」
わん ある冬の日の暮、保吉は薄汚いレストランの二階に脂臭い焼パンを齧っていた。彼のテエブルの前にあるのは亀裂の入った白壁だった。そこにはまた斜かいに、「ホットサンドウィッチもあります」と書いた、細長い紙が貼・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・乞食のように薄汚い。 紫玉は敗竄した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎息を漏らした。且つあわれみ、且つ可忌しがったのである。 灰吹に薄い唾した。 この世盛りの、思い上れる、美しき女優は、樹の緑蝉の声も滴るがごとき影に、框も・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・何だ、その女に対して、隠元、田螺の分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、活すもあるものか。――静にここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、生命の養生をするが可い。」「餓鬼めが、畜生!」「おっと、どっこ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 風通しの良い部屋をと言うと、二階の薄汚い六畳へ通された。先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。 女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来た。書き終ってふと前の頁を見ると、小谷治 二十九歳。妻糸子 三十四歳・・・ 織田作之助 「秋深き」
東より順に大江橋、渡辺橋、田簑橋、そして船玉江橋まで来ると、橋の感じがにわかに見すぼらしい。橋のたもとに、ずり落ちたような感じに薄汚い大衆喫茶店兼飯屋がある。その地下室はもとどこかの事務所らしかったが、久しく人の姿を見うけ・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・中では靴みがきに次ぐけちくさい商内だが、しかし、暗がりの中であえかに瞬いている青い光の暈のまわりに、夜のしずけさがしのび寄っているのを見た途端、私はそこだけが闇市場の喧騒からぽつりと離れて、そこだけが薄汚い、ややこしい闇市場の中で、唯一の美・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫