・・・ 岩むらはこごしく、やま水は清く、 薬草の花はにおえる谷へ。」 マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れて・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・奥座敷上段の広間、京間の十畳で、本床附、畳は滑るほど新らしく、襖天井は輝くばかり、誰の筆とも知らず、薬草を銜えた神農様の画像の一軸、これを床の間の正面に掛けて、花は磯馴、あすこいらは遠州が流行りまする処で、亭主の好きな赤烏帽子、行儀を崩さず・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・安い薬草などを煎じてのんで、そのにおいで畳の色がかわっているくらい――もう、わずらってから、永いことになるんだ。 結局お前は手ぶらですごすご帰って行った。呼びかえして、「――あれはどうしてる?」 と、お千鶴のことを訊きたかったが・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・まるで七年薬草の匂いの褐くしみこんだその部屋の畳を新しく取り替えて、蚊帳をつると、あらためて寺田屋は夫婦のものだった。登勢は風呂場で水を浴びるのだった。汗かきの登勢だったが、姑をはばかって、ついぞこれまでそんなことをしたことはなく、今は誰は・・・ 織田作之助 「螢」
・・・老婆は髪を振り乱しその大釜の周囲を何やら呪文をとなえながら駈けめぐり駈けめぐり、駈けめぐりながら、数々の薬草、あるいは世にめずらしい品々をその大釜の熱湯の中に投げ込むのでした。たとえば、太古より消える事のなかった高峯の根雪、きらと光って消え・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・しかしよく考えてみるとこれは何も神様が人間の役に立つためにこんないろいろの薬草をこしらえてくれたのではなくて、これらの天然の植物にはぐくまれ、ちょうどそういうものの成分になっているアルカロイドなどが薬になるようなふうに適応して来た動物からだ・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・ニコライの鐘楼と丸屋根が美しく冬日に輝いて、霜どけの花壇では薬草サフランと書いた立札だけが何にも生えていない泥の上にあった。由子はうっとり――思いつめたような恍惚さで日向ぼっこをした。お千代ちゃんは眩しそうに日向に背を向け、受け口を少しばか・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
出典:青空文庫