ふじわらのふささき【藤原房前】
[681〜737]奈良前期の公卿。不比等 (ふひと) の二男。北家の祖。元明上皇の遺詔により内臣 (うちつおみ) となる。聖武天皇の即位後は参議にとどまった。
ふじわらのふじふさ【藤原藤房】
[1295〜?]南北朝時代の後醍醐天皇の側近。宣房 (のぶふさ) の子。元弘の変で天皇を奉じて笠置山に逃れたが、捕らえられて常陸 (ひたち) へ配流。のち、建武政府の恩賞方筆頭となったが、行賞の不公正などに失望して隠居。万里小路 (までのこうじ) 藤房。
ふじわらのふひと【藤原不比等】
[659〜720]奈良初期の公卿。鎌足 (かまたり) の二男。諡号 (しごう) 、文忠公・淡海公。右大臣。大宝律令・養老律令の編纂 (へんさん) に参加。娘の宮子は文武天皇夫人、光明子は聖武天皇皇后となり、臣下の立后の例をひらき、藤原氏繁栄の基礎をつくった。
ふじわらのふゆつぐ【藤原冬嗣】
[775〜826]平安初期の公卿。嵯峨天皇の親任を得、蔵人所 (くろうどどころ) 設置により蔵人頭となり、以後要職を歴任。「弘仁格式」「内裏式」などの撰修を行い、一族子弟のために勧学院を設けた。閑院左大臣。
ふじわらのまさつね【藤原雅経】
⇒飛鳥井雅経 (あすかいまさつね)
ふじわらのまろ【藤原麻呂】
[695〜737]奈良前期の公卿。不比等 (ふひと) の四男。京家の祖。持節大使として陸奥 (むつ) の蝦夷 (えぞ) 地経営にあたったが、流行の疫病で死んだ。詩をよくし、「懐風藻」に五言詩5首を収録。
ふじわらのみちかね【藤原道兼】
[961〜995]平安中期の公卿。兼家の三男。兄道隆の死後関白に就任したがわずか7日で病没し、世に七日関白と称された。
ふじわらのみちたか【藤原道隆】
[953〜995]平安中期の公卿。兼家の長男。父の死後、弟道兼を退けて、摂政・関白となった。娘定子は一条天皇の皇后。中関白 (なかのかんぱく) 。
ふじわらのみちつなのはは【藤原道綱母】
[?〜995]平安中期の歌人。倫寧 (ともやす) の娘。藤原兼家の妻となり、右大将道綱を生んだ。「蜻蛉日記」の作者。家集に「道綱母集」がある。
ふじわらのみちとし【藤原通俊】
[1047〜1099]平安中・後期の歌人。白河天皇の命により、「後拾遺集」を撰進。歌は「後拾遺集」などにみえる。