・・・風はなくとも夕されば何処からともなく潮の香が来て、湿っぽく人を包む。蚊柱の声の様に聞こえて来るケルソン市の薄暮のささやきと、大運搬船を引く小蒸汽の刻をきざむ様な響とが、私の胸の落ちつかないせわしい心地としっくり調子を合わせた。 私は立っ・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・それからまたどの映画にも必ず根気よく実に根気よく繰返される退屈な立廻りが、どうも孑ぼうふらの群や蚊柱の運動を聨想させる。これを製作する監督、またそれを享楽する映画ファンの忍耐心の強いのは驚嘆すべきものである。そうしてまた、あれだけ大勢があれ・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・という呪文を唱えて頭上に揺曳する蚊柱を呼びおろしたものである。「おらのおとと」はなんのことかわからないが、この「む――ん」という声がたぶん蚊の羽根にでも共鳴して、それが、蚊にとってはすておき難い挑戦あるいは誘惑としての刺激を与えるせいであろ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
出典:青空文庫