・・・九十二だというが血色といい肉づきといい、どこにも老衰の兆しの見えないような親戚の老人は、父の子供の時分からのお師匠さんでもあった。分家の長兄もいつか運転手の服装を改めて座につき、仕出し屋から運ばれた簡単な精進料理のお膳が二十人前ほど並んで、・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ 祭の日などには舞台据えらるべき広辻あり、貧しき家の児ら血色なき顔を曝して戯れす、懐手して立てるもあり。ここに来かかりし乞食あり。小供の一人、「紀州紀州」と呼びしが振向きもせで行過ぎんとす。うち見には十五六と思わる、蓬なす頭髪は頸を被い・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・さなきだに蒼ざめて血色悪しき顔の夜目には死人かと怪しまれるばかり。剰え髪は乱れて頬にかかり、頬の肉やや落ちて、身体の健かならぬと心に苦労多きとを示している。自分は音を立てぬようにその枕元を歩いて、長火鉢の上なる豆洋燈を取上げた。 暫時聴・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・脚絆も足袋も、紺の色あせ、のみならず血色なき小指現われぬ。一声高く竹の裂るる音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁は足を引かざりき。 げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足を替えつ。十とせの・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・年はまだ三十前、肥り肉の薄皮だち、血色は激したために余計紅いが、白粉を透して、我邦の人では無いように美しかった。眼鼻、口耳、皆立派で、眉は少し手が入っているらしい、代りに、髪は高貴の身分の人の如くに、綰ねずに垂れている、其処が傲慢に見える。・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・美男子ではないが血色もよく、謂わば陽性の顔である。津島さんと話をしておれば苦労を忘れると、配給係りの老嬢が言った事があるそうだ。二十四歳で結婚し、長女は六歳、その次のは男の子で三歳。家族は、この二人の子供と妻と、それから、彼の老母と、彼と、・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・また向うからただ一人、洋紅色のコートを着た若い令嬢が俯向いたまま白いショールで口を蔽うて、ゆっくりゆっくり歩いて来る。血色のいい頬、その頬が涙で洗われている。 正月の休みで、外には誰も通る人がない。旧解剖学教室、生理学教室の廃墟には冬枯・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・それにしても血色が元の通りである。十八年を日本で住み古した人とは思えない。 先生の容貌が永久にみずみずしているように見えるのに引き易えて、先生の書斎は耄け切った色で包まれていた。洋書というものは唐本や和書よりも装飾的な背皮に学問と芸術の・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・池辺君はその時からすでに血色が大変悪かった。けれどもその時なら口を利く事が充分できたのである。 夏目漱石 「三山居士」
・・・けれどもその血色はしだいにあおくなるだけであった。そうしてしまいにはとうとう病気だということがわかった。しかもその病気があまりたちのよいものではないということがわかった。なおよく探究すると、公に言いにくい夫の疾がいつのまにか妻に感染したのだ・・・ 夏目漱石 「手紙」
出典:青空文庫