・・・従って衣食の計を立てることは僕等の目前に迫っていた。僕はだんだん八犬伝を忘れ、教師になることなどを考え出した。が、そのうちに眠ったと見え、いつかこう言う短い夢を見ていた。 ――それは何でも夜更けらしかった。僕はとにかく雨戸をしめた座敷に・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・しかし彼は衣食する上にはある英字新聞の記者を勤めているのだった。僕はどう云う芸術家も脱却出来ない「店」を考え、努めて話を明るくしようとした。「上海は東京よりも面白いだろう。」「僕もそう思っているがね。しかしその前にもう一度ロンドンへ・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・――あるいは悲惨ではないかも知れない。衣食の計に追われている窮民の苦痛に比べれば、六十何銭かを歎ずるのは勿論贅沢の沙汰であろう。けれども苦痛そのものは窮民も彼も同じことである。いや、むしろ窮民よりも鋭い神経を持っている彼は一層の苦痛をなめな・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・自分の本質のために父が甘んじて衣食を給してくれているとの信頼が、三十にも手のとどく自分としては虫のよすぎることだったのだと省みられた。 おそらく彼のその心の動きが父に鋭く響いたのだろう、父は今までの怒りに似げなく、自分にも思いがけないよ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・私も今後は経済的には自分の力だけの範囲で生活する覚悟でいますが、従来親譲りの遺産によって衣食してきた関係上、思うようにいかない境遇に追いつめられるかもしれません。そんな時が来ても、私がこの農場を解放したのを悔いるようなことは断じてないつもり・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・ その後にようやく景気が立ちなおってからも、一流の大家を除く外、ほとんど衣食に窮せざるものはない有様で、近江新報その他の地方新聞の続き物を同人の腕こきが、先を争うてほとんど奪い合いの形で書いた。否な独り同人ばかりでなく、先生の紹介によっ・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・従って操觚者が報酬を受くる場合は一冊の著述をする外なく衣食を助くる道は頗る狭くして完全に生活する事が極めて難かしかった。雑誌がビジネスとして立派に成立し、操觚者がプロフェッショナルとして完全に存在するを得るに到ったは畢竟時代の進歩であるが、・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ しかし、このことは、一般が冷淡なる程、しかく差迫っていない問題であろうか、すでに、社会上の役割を終った老人等が、彼等の老後、貧困に陥り、衣食に窮するに至るとせば、当然、その責をこの社会が負うことを至当とするからである。これについては、・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・ たとえ、自分達は、衣食に苦しまず、仕合にその日を送っているとしても、一歩外へ出て、あたりをながめれば、道を歩いても、電車に乗っても、いかに貧しく、不幸に暮す人達が多いかを発見するでしょう。そして、そういう人々を見た時に、やさしい、利巧・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
・・・ 何と言っても、はじめて、作家に志してから、苦しんだことは、独自の境地を行こうとする努力と、その作品を直に金に換えなければ、衣食することができなかったことです。文壇の大勢に、時としては、反抗したものを書き、それを売らなければ、ならぬとい・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
出典:青空文庫