・・・崖の上には裏口の門があったり、塀が続いたりして、いい屋敷の庭木がずっと頭の上へ枝を伸ばしていた。昔から持ち続いた港の富豪の妾宅なぞがそこにあった。「あれはどうしたかね、彦田は」「ああすっかり零落れてしまいました。今は京都でお茶の師匠・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・一方口ばかし堅めたって、知らねえ中に、裏口からおさらばをきめられちゃ、いい面の皮だ。」 一同、成程と思案に暮れたが、此の裏穴を捜出す事は、大雪の今、差当り、非常に困難なばかりか寧ろ出来ない相談である。一同は遂にがたがた寒さに顫出す程、長・・・ 永井荷風 「狐」
・・・裏の撥橋が下りてて、裏口が開けてあッたんですッて」「え、そうかねえ。まア」 小万は驚きながらふッと気がつき、先刻吉里が置いて行ッた手紙の紙包みを、まだしまわず床の間に上げておいたのを、包みを開け捻紙を解いて見ると、手紙と手紙との間か・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ その横丁へどこかの家の裏口が向っていて、そこのガラス戸が開き、そこから女の首がのぞき、高い声で姿の見えない誰かに云っている。その女の顔は、うしろから灯かげがさしてアスファルトの上に落ちているから、こっちからは見えない。 一番おしま・・・ 宮本百合子 「映画」
・・・ 祖母の家の裏口の小溝の傍に一本杏の樹があった。花も実もつけない若木であったが柔かい緑玉色の円みを帯びた葉はゆたかに繁っていた。夏の嵐の或る昼間、ひょっと外へ出てその柔かい緑玉色の杏の叢葉が颯と煽られて翻ったとき、私の体を貫いて走った戦・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・ そして、大切そうに皆に取り巻かれ、気分もよほどよくなったらしい面持ちをしながら、家からの迎えを待っている若者を眺めてから、愛くしみに満ち充ちた心を持って、裏口から誰も気の付かないうちに、さっさと帰って行ってしまった。二・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 話をきいて私はつと家の中を見たい気になり、木の根っこから乗り出して裏口から半身を家の中へ入れる様にして中の様子を見ようとした。 三尺位の入口は往来に面し裏口は今私の居る、今は何も作ってない畑地に向って居る。 この二つの入口だけ・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・へ表口から帰された女子失業群が、溢れ出した裏口は、真直、街頭につづいているのである。 新聞には強盗、追剥、怖しい記事が日毎に報告されなければならなくなって来た。復員軍人がそれらの犯罪を犯すということについて輿論が高くなって、宮内次官は「・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・座敷の戸を締め切って、籠み入る討手のものを一人一人討ち取ろうとして控えていた一族の中で、裏口に人のけはいのするのに、まず気のついたのは弥五兵衛である。これも手槍を提げて台所へ見に出た。 二人は槍の穂先と穂先とが触れ合うほどに相対した。「・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・が、便所へ行く筈だったと気が附くと、裾を捲って裏口へ行きかけたが、台所の土瓶が眼につくと、また咽喉が渇いているのに気がついた。彼女は土瓶を冠って湯を飲んだ。そこへ勘次が安次を連れて這入って来た。「秋公いるかな?」「お前今日な、馬が狸・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫