・・・もし裏庭へ出ていたら危険なわけであった。聞いてみるとかなりひどいゆれ方で居間の唐紙がすっかり倒れ、猫が驚いて庭へ飛出したが、我家の人々は飛出さなかった。これは平生幾度となく家族に云い含めてあったことの効果があったのだというような気がした。ピ・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・ 一時、わたくしの仮寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て、松の林の間から諏訪田の水田を一目に見渡す。朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほと・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 父親は例の如くに毎朝早く、日に増す寒さをも厭わず、裏庭の古井戸に出て、大弓を引いて居られたが、もう二度と狐を見る機会がなかった。何処から迷込んだとも知れぬ痩せた野良犬の、油揚を食って居る処を、家の飼犬が烈しく噛み付いて、其の耳を喰切っ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ しばらくすると裏庭で、子供が文鳥を埋るんだ埋るんだと騒いでいる。庭掃除に頼んだ植木屋が、御嬢さん、ここいらが好いでしょうと云っている。自分は進まぬながら、書斎でペンを動かしていた。 翌日は何だか頭が重いので、十時頃になってようやく・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・三方建物の羽目でふさがれ、一方だけ、裏庭につづいている。裏庭と畑とは木戸と竹垣で仕切られている。 その時分、うちは樹木が多く、鄙びていた。客間の庭には松や梅、美しい馬酔木、榧、木賊など茂って、飛石のところには羊歯が生えていた。子供の遊ぶ・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・父は裏庭に向った下見窓の板じきのところに蓄音器をおいて、よくひとりでそれをかけては聴いていた。そういうとき、何故か母はその傍にいず、凝っと音楽をきいている父の後姿には、小さい娘の心を誘ってそーっとその側へ座らせるものをもっていた。四十を出た・・・ 宮本百合子 「きのうときょう」
・・・私はやっぱり生活を愛し、たくさん笑い、心の底に音楽を感じながら、例えば、きょうは暑くて苦しいから、勉強部屋の掃除をさっぱりして、裏庭から草花をとって来てそれをさし、フロをたきつけ、それを浴び、きのう下げてきたフトンの日によく乾したのをベッド・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・菊につられて何心なく裏庭まで入ってしまって、目の前に荒っぽいレール敷の米俵の山を見て私たちは、その米屋にかかわりはないのだが興醒めた気分になって出て来た。 豊島日の出と云えば、小学校の子供が厭世自殺をしたことで一時世間の耳目をひいた町で・・・ 宮本百合子 「この初冬」
・・・ 縁側に出て見れば、裏庭は表庭の三倍位の広さである。所々に蜜柑の木があって、小さい実が沢山生っている。縁に近い処には、瓦で築いた花壇があって、菊が造ってある。その傍に円石を畳んだ井戸があって、どの石の隙間からも赤い蟹が覗いている。花壇の・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・と、再びそこから高縁の上へ転がると、間もなく裸体の四つの足が、空間を蹴りつけ裏庭の赤万両の上へ落ち込んだ。葛と銀杏の小鉢が蹴り倒された。勘次は飛び起きた。そして、裏庭を突き切って墓場の方へ馳け出すと、秋三は胸を拡げてその後から追っ馳けた。・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫