・・・入って見ると、裏道の角に、稲荷神の祠があって、幟が立っている。あたかも旧の初午の前日で、まだ人出がない。地口行燈があちこちに昼の影を浮かせて、飴屋、おでん屋の出たのが、再び、気のせいか、談話中の市場を髣髴した。 縦通りを真直ぐに、中六を・・・ 泉鏡花 「古狢」
ある日、おじいさんはいつものように、小さな手車を引きながら、その上に、くずかごをのせて、裏道を歩いていました。すると、一軒の家から、呼んだのであります。 いってみると、家の中のうす暗い、喫茶店でありました。こわれた道具や、不用のが・・・ 小川未明 「おじいさんが捨てたら」
・・・この時われは裏道を西向いてヨボヨボと行く一人の老翁を認めた。乞食であろう。その人の多様な過去の生活を現わすかのような継ぎはぎの襤褸は枯木のような臂を包みかねている。わが家の裏まで来て立止った。そして杖にすがったまま辛うじてかがんだ猫背を延ば・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・ 一、雨に名所の春も悲しき闇の中を街燈遠く吾妻橋まで花がくれに連なれるが見えたる。 一、日ごろは打絶えたる人の花に催されてなど打興じながら柴の戸を排き入り来りたる。 一、裏道づたひいづくへともなく行くに、いけがきのさま、折戸のか・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・同種同類でないと、本当の比較ができないからでもあるし、ひとつ、あいつを乗り越してやろうと云う時は、裏道があってもかえって気がつかないで、やっぱり当の敵の向うに見える本街道をあとを慕って走け出すのが心理的に普通な状態であります。すると同圏内で・・・ 夏目漱石 「文壇の趨勢」
・・・彼は、その本能的な、その上、いつまでも人生の裏道を通らねばならないことから来る、鋭い直感で、大抵一切のことを了解した。今度はどの位だな、と思っていると、大抵刑期はそれより一年とは違わなかった。――一年の人間の生活は短くない。だが、無頼漢共を・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・山懐の萩の生えた赫土を切りわったようなところに、一つの温泉がある、そこには何だか難かしい隷書の額がかかっていたので、或る日、裏道づたいに偶然そこへ出て来た私たちが好奇心をうごかされてガラス窓をあけてみた。内部は三和土のありふれた湯殿のつくり・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・ 春日山の奥の院から裏道に出ますと、大きな杉並木があります。成長しきったその老杉に対すると何となく総てを知りぬいてる古老にでも逢ったように感じられて、ツイ言葉でも懸けて見たくなるのです。 奈良朝時代の・・・ 宮本百合子 「「奈良」に遊びて」
・・・そこは鎌倉、建長寺の裏道だ。午前五時、私共は徹夜をした暁の散策の道すがら、草にかこまれた池に、白蓮を見た。靄は霽れきれぬ。花は濡れている。すがすがしさ面を打つばかりであった。 模糊とした私の蓮花図のむこうに、雨戸は今日も白々としまった一・・・ 宮本百合子 「蓮花図」
出典:青空文庫