・・・一方は子どものいたいけな指が守れるのが直ちに見える。この場合のような選択について、有名なシルレルとカントとの論争が起こるのだ。道徳的義務の意識からでなく、活々とした感情の動きにより、いわゆる「美しきたましい」によって行為すべきであるというシ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 下顎骨の長い、獰猛に見える伍長が突っ立ったまゝ云った。 彼は、何故、そっちへ行かねばならないか、訊ねかえそうとした。しかし、うわ手な、罪人を扱うようなものゝ云い方は、変に彼を圧迫した。彼は、ポケットの街の女から貰った眼の大きい写真・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・と、それほど立入った細かい筋路がある訳では無いが、何となく和楽の満足を示すようなものが見える。その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内であり、半身であると無意・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・これによれば、人はどこまでも死をさけ、死に抗するのが自然であるかのように見える。されど、一面にはまた種保存の本能がある。恋愛である。生殖である。これがためには、ただちに自己を破壊しさってくやまない、かえりみないのも、また自然の傾向である。前・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・「もう直ぐだ、あそこの角をまがると、刑務所の壁が見えるよ。」 ――俺はその言葉に、だまって向き直った。 青い褌 自動車は合図の警笛をならしながら、刑務所の構内に入って行った。 監獄のコンクリートの壁は、側・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四分ぐらいで鴨居にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、郷里のほうから年取りに上京して、その時だけ私たちと一緒になる太郎よりも、次郎のほうが背はずっと高くなった。 茶の間の柱のそばは狭い廊下づ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・人生観はすなわち実行的人生の目的と見えるもの、総指揮と見えるものに識到した観念でないか。いわゆる実行的人生の理想または帰結を標榜することでないか。もしそうであるなら、私にはまだ人生観を論ずる資格はない。なぜならば、私の実行的人生に対する現下・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・文明の結果で飾られていても、積み上げた石瓦の間にところどころ枯れた木の枝があるばかりで、冷淡に無慈悲に見える町の狭い往来を逃れ出て、沈黙していながら、絶えず動いている、永遠なる自然に向って来るのである。河は数千年来層一層の波を、絶えず牧場と・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 王さまはウイリイが言ったように、羽根を三枚ならべて、まん中に見える女の顔をごらんになると、びっくりなすって、「これはだれの顔か。」とお聞きになりました。ウイリイは自分でも知らないのですから、だれの顔だとも言うことが出来ませんでした・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・まくらの上でちょっと頭さえ動かせば、目に見える景色が赤、黄、緑、青、鳩羽というように変わりました。冬になって木々のこずえが、銀色の葉でも連ねたように霜で包まれますと、おばあさんはまくらの上で、ちょっと身動きしたばかりでそれを緑にしました。実・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
出典:青空文庫