・・・ 私は秋の日など、寺の本堂から、ひろびろとした野を見渡した。黄いろく色ついた稲、それにさし通った明るい夕日、どこか遠くを通って行く車の音、榛の木のまばらな影、それを見ると、そこに小林君がいて、そして私と同じようにしてやはり、その野の夕日・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・一通り画面を塗りつぶして、さて全体の効果をよく見渡してからそろそろ仕上げにかかろうというときの一服もちょっと説明の六かしい霊妙な味のあるものであった。要するに真剣にはたらいたあとの一服が一番うまいということになるらしい。閑で退屈してのむ煙草・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・そこに立って境内を見渡した時に私はかつて経験した覚えのない奇妙な感じに襲われた。 つい近頃友人のうちでケンプェルが日本の事を書いた書物の挿絵を見た中に、京都の清水かどこかの景と称するものがあった。その絵の景色には、普通日本人の頭にある京・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 余は東側の窓から首を出してちょっと近所を見渡した。眼の下に十坪ほどの庭がある。右も左もまた向うも石の高塀で仕切られてその形はやはり四角である。四角はどこまでもこの家の附属物かと思う。カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ懸・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・一日余は余の書斎に坐って、四方に並べてある書棚を見渡して、その中に詰まっている金文字の名前が悉く西洋語であるのに気が付いて驚いた事がある。今まではこの五彩の眩ゆいうちに身を置いて、少しは得意であったが、気が付いて見ると、これらは皆異国産の思・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
・・・ 悪魔のお医者はきっと立ってこれを見渡していましたがその光が消えてしまうとまた云いました。「では第二服 まひるの草木と石土を 照らさんことを怠りし 黄なるひかりは集い来てなすすべしらに漂えよ」 空気へうすい蜜のような色がちらちら・・・ 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」
・・・そうすると河があって、どうしてもその河を横切らなければ、停車場へ行って汽車に乗って帰ることが出来ないのに船が一つもない。見渡したところ橋もない。だけれども汽車の時間は切迫する。子供はどうしよう。そこで皆んなが智慧を出し合い、その中に賢い子供・・・ 宮本百合子 「ソヴェト・ロシアの素顔」
・・・そのとき祖母は、賑やかに揃っている連中を見渡しながら、巾着を何処へやったか判らなくなって困る困るとこぼした。 数日後の或る朝のことであった。電話が掛って来た。私は友達の家にいた。電話口に出て見ると、母の声で、祖母が四五日前から腸をこわし・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・ 一座を見渡した主人が口を開いた。「夜陰に呼びにやったのに、皆よう来てくれた。家中一般の噂じゃというから、おぬしたちも聞いたに違いない。この弥一右衛門が腹は瓢箪に油を塗って切る腹じゃそうな。それじゃによって、おれは今瓢箪に油を塗って切ろ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 五条子爵は秀麿の手紙を読んでから、自己を反省したり、世間を見渡したりして、ざっとこれだけの事を考えた。しかしそれに就いて倅と往復を重ねた所で、自分の満足するだけの解決が出来そうにもなく、倅の帰って来る時期も近づいているので、それまで待・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫