・・・それは見知らぬ大衆が法によっておのずと統一されて、秩序を失わず、霊の勝利と生気との気魄がみなぎりあふれているからである。 日蓮の張り切った精神と、高揚した宗教的熱情とは、その雰囲気をおのずと保って、六百五十年後の今日まで伝統しているのだ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・の娘のお八重が、見知らぬ男と睦まじげに笑いかわしながら、自動車からおりて来た。 情夫かと思うと、夫婦だった。「太助」のお政も、その附近の者の顔ではない、別のタイプの男をつれて帰って来た。 素性の知れた、ところの者同志とでなければ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・つこく物に感じやすい次郎がその告別式から引き返して来た時は、本郷の親戚の家のほうに集まっていた知る知らぬ人々、青山からだれとだれ、新宿からだれというふうに、旧知のものが並んですわっているところで、ある見知らぬ婦人から思いがけなく声を掛けられ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・君は、誰だ。」見知らぬひとに、こんな乱暴な口のききかたをする男爵ではなかったのである。 青年は悪びれずに、まじめな顔して静かに部屋へはいって来て、「坂井さんですか。僕は、くにでいちどお目にかかったことがございます。お忘れになったこと・・・ 太宰治 「花燭」
・・・果して、勝手口から、あの少女でもない、色のあさぐろい、日本髪を結った痩せがたの見知らぬ女のひとがこちらをこっそり覗いているのを、ちらと見てしまった。「それでは、まあ、その傑作をお書きなさい。」「お帰りですか? 薄茶を、もひとつ。」・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・がったん、電車は、ひとつ大きくゆれて見知らぬ部落の林へはいった。微笑ましきことには、私はその日、健康でさえあったのだ。かすかに空腹を感じたのである。どこでもいい、にぎやかなところへ下車させて下さい、と車掌さんにたのんで、ほどなく、それではこ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・たとえば池のみぎわから水面におおいかぶさるように茂った見知らぬ木のあることは知っていたが、それに去年は見なかった珍しい十字形の白い花が咲いている。それが日比谷公園の一角に、英国より寄贈されたものだという説明の札をつけて植えてある「花水木」と・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・廊下へ出て腰かけて煙草でも吹かしていると、自然にのどかなあくびを催して来る、すると今までなんとなしにしゃちこばってぎこちないものに見えた全世界が急になごやかに快いものに感ぜられて来て、眼前を歩いている見知らぬ青年男女にもなんとない親しみを感・・・ 寺田寅彦 「映画と生理」
・・・ 見知らぬ広い屋敷の庭に大きな池がある。大きな船が浮んでいる。それが船のようでもあり座敷のようでもある。天井がない。今に雨が降り出すと困るがと思っていると、自分がいつの間にかその船に乗って天幕を張ろうとしている。それが自分のようでもあり・・・ 寺田寅彦 「御返事(石原純君へ)」
・・・殊に自分が呱々の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その細密い枝振りの一条一条にまでちゃんと見覚えのある植込の梢を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入る事ができなくなったのかと思・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫