・・・ しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面に見えるだけです。その外は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははいりません。しかし嗄・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 洋一は横から覗くように、静な兄の顔を眺めた。「うん、――それよりもお母さんの側へ行くと、莫迦に好いにおいがするじゃありませんか?」 叔母は答を促すように、微笑した眼を洋一へ向けた。「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香水・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ よし、それとても朧気ながら、彼処なる本堂と、向って右の方に唐戸一枚隔てたる夫人堂の大なる御廚子の裡に、綾の几帳の蔭なりし、跪ける幼きものには、すらすらと丈高う、御髪の艶に星一ツ晃々と輝くや、ふと差覗くかとして、拝まれたまいぬ。浮べる眉、・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・さしたての潮が澄んでいるから差し覗くとよく分かった――幼児の拳ほどで、ふわふわと泡を束ねた形。取り留めのなさは、ちぎれ雲が大空から影を落としたか、と視められ、ぬぺりとして、ふうわり軽い。全体が薄樺で、黄色い斑がむらむらして、流れのままに出た・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 答えがないので、為さんはそっと紙門を開けて座敷を覗くと、お光は不断着を被ったまままだ帯も結ばず、真白な足首現わに褄は開いて、片手に衣紋を抱えながらじっと立っている。「為さん、お前さん本当にそんなことを言ったのかね?」「ええ」と・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ひょいと中を覗くと、それが本堂まで続いていたので、何と派手な葬式だが、いったいどこの何家の葬式かと、訊いてみると、「――阿呆らしい。葬式とちがいまっせ。今日はあんた、灸の日だんがな」 と、嗤われた。が、丹造は苦笑もせず、そして、だん・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ひょいと覗くと、右の眼尻がひどく下った文楽のツメ人形のような顔――見覚えがあった。「横堀じゃないか」小学校で同じ組だった横堀千吉だった。「へえ。――済んまへん」 ふとあげた顔を面目なさそうにそむけた。左の眼から頬へかけて紫色には・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 夜晩く鏡を覗くのは時によっては非常に怖ろしいものである。自分の顔がまるで知らない人の顔のように見えて来たり、眼が疲れて来る故か、じーっと見ているうちに醜悪な伎楽の腫れ面という面そっくりに見えて来たりする。さーっと鏡の中の顔が消えて、あ・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・縁端から、台所に出て真闇の中をそっと覗くと、臭気のある冷たい空気が気味悪く顔を掠めた。敷居に立って豆洋燈を高くかかげて真闇の隅々を熟と見ていたが、竈の横にかくれて黒い風呂敷包が半分出ているのに目が着いた。不審に思い、中を開けて見ると現われた・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・という意味を言ったのであったが、船頭もちょっと身を屈めて、竿の方を覗く。客も頭の上の闇を覗く。と、もう暗くなって苫裏の処だから竿があるかないか殆ど分らない。かえって客は船頭のおかしな顔を見る、船頭は客のおかしな顔を見る。客も船頭もこの世でな・・・ 幸田露伴 「幻談」
出典:青空文庫