・・・と、小万は懐紙で鉄瓶の下を煽いでいる。 吉里は燭台煌々たる上の間を眩しそうに覗いて、「何だか悲アしくなるよ」と、覚えず腮を襟に入れる。「顔出しだけでもいいんですから、ちょいとあちらへおいでなすッて下さい」と、例のお熊は障子の外から声・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 私も覚えず、『可怖い方だわねえ。』 若子さんは可怖い物見たさと云った様な風をなすって、口も利かないで、其方を見て居らしッたのでした。 すると、其方が私達の方へ歩んで御居ででした。途端に其処に通掛った近衛の将校の方があったのです・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・オオビュルナンは覚えず居ずまいを直して、蹙めた顔を元に戻した。ちょうど世話物の三幕目でいざと云う場になる前に、色男の役をする俳優が身繕いをすると云う体裁である。 はてな。誰も客間には這入って来ない。廊下から外へ出る口の戸をしずかに開けて・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・うやうやしく祠前に手をつきて拝めば数百年の昔、目の前に現れて覚えずほろほろと落つる涙の玉はらいもあえず一もとの草花を手向にもがなと見まわせども苔蒸したる石燈籠の外は何もなし。思いたえてふり向く途端、手にさわる一蓋の菅笠、おおこれよこれよとそ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・かつ所作の活溌にして生気あるはこの遊技の特色なり、観者をして覚えず喝采せしむる事多し。但しこの遊びは遊技者に取りても傍観者に取りても多少の危険を免れず。傍観者は攫者の左右または後方にあるを好しとす。 ベースボールいまだかつて訳語あら・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・自分は覚えず心にインド! 印度だ、と叫んだ。インドでも、裸で裸足の人民の上に、やはり飛行機がとんでいる。人民の無権利の上に、こうやって飛行機だけはとんでいるのだ。革命的な労働者、農民、朝鮮、台湾人にとって、飛行機は何をやったか? 猶も高・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・の最後の頁を読み終ったとき、私は覚えずこれはなんと農村インテリゲンチアの小説であろうか、と思った。そして、作者自身からいつか聞いた身の上話の断片――田舎の中学生であったころからの芸術愛好家であり、ダダイズムの油絵を描き、上京後は新聞社に入っ・・・ 宮本百合子 「作家への課題」
・・・長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。これから形ばかりではあるが、一家四人のものがふだんのように膳に向かって、午の食事をした。 長十郎は心静かに支度をして、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 秀麿は覚えず噴き出した。「僕がそんな侮辱的な考をするものか。」「そんなら頭からけんつくなんぞを食わせないが好い。」「うん。僕が悪かった。」秀麿は葉巻の箱の蓋を開けて勧めながら、独語のようにつぶやいた。「僕は人の空想に毒を注ぎ込・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・戸の外で己は握手して覚えず丁寧に礼をした。 暫くしてから海面の薄明りの中で己はエルリングの頭が浮び出てまた沈んだのを見た。海水は鈍い銀色の光を放っている。 己は帰って寝たが、夜どおしエルリングが事を思っていた。その犯罪、その生涯の事・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫