・・・戦争が永くつづいて、日本にだんだん酒が乏しくなっても、そのひとのアパートを訪れると、必ず何か飲み物があった。私はそのひとのお嬢さんにつまらぬ物をお土産として持って行って、そうして、泥酔するまで飲んで来るのである。以上の四つが、なぜそのひとが・・・ 太宰治 「メリイクリスマス」
・・・一日汗水たらして働いた後にのみ浴後の涼味の真諦が味わわれ、義理人情で苦しんだ人にのみ自由の涼風が訪れるのである。 涼味の話がつい暑苦しくなった。 きょう、偶然ことし流行の染織品の展覧会というのをのぞいた。近代の夏の衣装の染織には、ど・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・ だけれども、スターリングラードの夕暮、彼に忘れがたい感銘を与えた一人の少年の姿――夕方になると共同墓地に葬られた父を必ず訪れる少年の運命にとって、第二次大戦に連合軍が第二戦線をおくらして、ソヴェトに最も負担の多い出血を余儀なくさせたこ・・・ 宮本百合子 「心に疼く欲求がある」
・・・ 今にさし迫ったことではないという、潜在的な余裕、安心と、彼女の空想によって神秘化され、何かしら魅惑的な色彩をほどこされている死そのものの概念とが、どんな幸福な若者の心をも、一度は必ず訪れるに違いない感傷的な憂愁の力をかりて、驚くべき劇・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 豊かな、喜びの秋が他の耕地耕地を訪れるとき、禰宜様宮田のところへは、何が来てくれたのか。 息もつけない恐怖である。逼迫である。 愚痴を並べ、苦情を云っていられるうちは、貧乏の部には入らないという、そのほんとの「空虚」が来たので・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫