・・・いや、私は何度となく、すでに細君の従弟だと云う以上、芝居で挨拶を交すくらいな事は、さらに不思議でも何でもないじゃないかと、こう理性に訴えて、出来るだけその男に接近しようとさえ努力して見ました。しかし私がその努力にやっと成功しそうになると、彼・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ だからもし運命が許したら、何小二はこの不断の呻吟の中に、自分の不幸を上天に訴えながら、あの銅のような太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通したのに相違ない。が、この平地が次第に緩い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・牛舎へも水が入りましたと若い衆も訴えて来た。 最も臆病に、最も内心に恐れておった自分も、側から騒がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風をして、何ほど増して来たところで溜り水だから高が知れてる。そんなにあわてて騒ぐに及ばないと一・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・何人に配ったか知らぬが、僅に数回の面識しかない浅い交際の私の許へまで遣したのを見るとかなり多数の知人に配ったらしいが、新聞社を他へ譲渡すの止むを得ない事情を縷々と訴えたかなり長い手紙を印刷もせず代筆でもなく一々自筆で認めて何十通も配ったのは・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・殊にテオドラ嬢の父は元老院議官であったが、英国のセネートアの堂々たる生活ぶりから期待したとは打って変った見窶らしい生活が意に満たないで、不満のある度に一々英国公使に訴え、公使がまた一々取次いで外相井侯に苦情を持込むので、テオドラ嬢の父は事毎・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 白鳥は、なんで、子供の訴えを聞きいれましょう。子供をくわえて、ある大きな岩の上へ止まりました。そして、魚の子供を岩の上において、いいました。「もう、おまえは帰ることができない。俺は、おまえを捕らえると、すぐにひとのみにしてしまおう・・・ 小川未明 「魚と白鳥」
・・・という言葉は詩的に、センチメンタルに聞えるかも知れないが、民衆の利福を祈念するために、より正しい生活を人間の正義感に訴えて、地上に実現せしめんとする目的は、一片の空想的事実ではないのであります。 芸術に対しては、いろいろの見解が下される・・・ 小川未明 「自分を鞭打つ感激より」
・・・ところが、一代は退院後二月ばかりたつとこんどは下腹の激痛を訴え出した。寺田は夜通し撫ぜてやったが、痛みは消えず、しまいには油汗をタラタラ流して、痛い痛いと転げ廻った。再発した癌が子宮へ廻っていたのだ。しかし医者は入院する必要はないと言う。ラ・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ある日小隊長は腹部に激痛を訴えたので、驚いた婆さんは灸を据えたが、医者は診て、こりゃ盲腸だ、冷やさなくちゃいけないのに温める奴があるかと、散々だった。幸い一命を取りとめ、手術もせずに全快したのは一枝や、千代やそれから千代の隣の水原芳枝という・・・ 織田作之助 「電報」
・・・と、私は弟の顔を見ると泣いても訴えたい気持をそそられた。「いや、そういうわけでしたらそれではFさんの方はそういうことにしましょうか。兄さんの方は後でまたゆっくりと方法を考えて、国へ帰るにしても旅へ出るにしても、とにかくあまりむりをなさら・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫