・・・昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・思慕と憧憬との精神的側面があり、誇張していえば、跪きたくなる感情がある。そして対象は単一的であって並列的ではない。美的狩猟はならべ描くことによって情緒をますのだ。 結婚前の青年、特に学窓にある青年にとって、恋愛とはまず精神的思慕であり、・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・不品行を誇張された。三等症のように見下げられた。ポケットから二三枚の二ツに折った葉書と共に、写真を引っぱり出した時、伍長は、「この写真を何と云って呉れたい?」とへへら笑うように云った。「何も云いやしません。」「こいつにでもなか/・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・「どいつも、こいつも、病気を誇張してやがるぞ!」軍医は考えた。 栗本も同様に、憐れみを乞い求める眼と、弱々しげな恰好をして、軍医の前へやって行った。彼は、シベリアに残されるのだったら軍医の前にへたばろうと考えた位いだ。「どうだな・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・はと申しますと、これはどうも実際社会に現存して居る人物の悪者を極端まで誇張して書いたような形跡があります。まさかに馬琴の書きましたほどの悪人が、その当時に存して居ったとは思えませぬが、さればとてそれは全く馬琴の空想ばかりで捏造したものではあ・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・ これらの中、キリシタンの法は、少しは奇異を見せたものかも知らぬが、今からいえば理解の及ばぬことに対する怖畏よりの誇張であったろう。識神を使ったというのは阿倍晴明きりの談になっている。口寄せ、梓神子は古い我邦の神おろしの術が仏教の輪廻説・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ 龍介は誇張なしにそう思って、泣いた。龍介は女を失ったということより、今はその侮辱に堪えられなかった。心から泣けた。――何回も何回もお預けをしておいてしまいにあかんべい、だ! 龍介はこの事以来自分に疲れてきた。すべて自信がもてない。ものをハ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・全身の血が逆流したといっても誇張でない。あれだ! あの一件だ。「身のたけ一丈、頭の幅は三尺、――」木戸番は叫びつづける。私の血はさらに逆流し荒れ狂う。あれだ! たしかに、あれだ。伯耆国淀江村。まちがいない。この絵看板の沼は、あの「いかぬ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・私は、その大家族の一人一人に就いて多少の誇張をさえまぜて、その偉さ、美しさ、誠実、恭倹を、聞き手があくびを殺して浮べた涙を感激のそれと思いちがいしながらも飽くことなくそれからそれと語りつづけるに違いない。けれども、聞き手はついにたまりかねて・・・ 太宰治 「花燭」
・・・そうしてそれがそれほど誇張されない身ぶりの運動のモンタージュによって、あらゆる悲痛の腹芸を演ずるからおもしろいのである。 松王丸の妻もよくできていた。源蔵の妻よりもどこか品格がよくて、そうして実にまた、いかなる役者の女形がほんとうの女よ・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
出典:青空文庫