・・・勿論彼はそのとき、誰かがそこの崖路に立っていて、彼らの窓を眺め、彼らの姿を認めて、どんなにか刺戟を感じるであろうことを想い、その刺戟を通して、何の感動もない彼らの現実にもある陶酔が起こって来るだろうことを予想しているのであった。しかし彼には・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ゆくりなく目を注ぎたるかの二階の一間に、辰弥はまたあるものを認めぬ。明け放したる障子に凭りて、こなたを向きて立てる一人の乙女あり。かの唄の主なるべしと辰弥は直ちに思いぬ。 顔は隔たりてよくも見えねど、細面の色は優れて白く、すらりとしたる・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・わり艱難を互いにたすけ合い心を一にして大君の御為御励みのほどひとえに祈り上げ候以上は母が今わの際の遺言と心得候て必ず必ず女々しき挙動あるべからず候なお細々のことは嫂かき添え申すべく候右認め候て後母様の仰せにて仏壇に燈ささげ候・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ 最後にこの天理の自然、生命の法則という視点から、最初に立ちかえって、夫婦生活というものには無理が含まれていることも、英知をもって認めておかなくてはならぬ。この無理をどう扱うかということが生活のひとつの知恵である。 性の欲求、恋愛は・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・不明瞭な点を残さず、悉くそれを赤ときめて、一掃してしまえば功績も一層水際立って司令部に認められる。 大隊長は、そのへんのこつをよくのみこんでいた。彼は先ず武器を押収することを命じた。それから、パルチザンを、捕虜とすることを命じた。それか・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・むかしも今も席画というがある、席画に美術を求めることの無理で愚なのは今は誰しも認めている。席上鋳金に美術を求める、そんな分らない校長ではないと思っていたが、校長には校長の考えもあろうし、鋳金はたとい蝋型にせよ純粋美術とは云い難いが、また校長・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・たじけのうせんこと死者の首を斬るよりも易しと鯤、鵬となる大願発起痴話熱燗に骨も肉も爛れたる俊雄は相手待つ間歌川の二階からふと瞰下した隣の桟橋に歳十八ばかりの細そりとしたるが矢飛白の袖夕風に吹き靡かすを認めあれはと問えば今が若手の売出し秋子と・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ と早々石川様から御家来をもちまして、書面に認め、此の段町奉行所へ訴えました。正直の首に神宿るとの譬で、七兵衞は図らず泥の中から一枚の黄金を獲ましたというお目出度いお話でございます。・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・雅致のある支那風な桃色の用箋にそれが認めてある。そんな親切なやりかたがこの池の茶屋へ客の足を向けさせるらしい。お三輪はそこにも広瀬さんや新七の心の働いていることを思った。「浦和へはあの従妹に送って貰いましょう。お前さんもいそがしそうだか・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・なぜならば、私の実行的人生に対する現下の実情は、何らの明確な理想をも帰結をも認め得ていないからである。人生の目的は何であろうか。われらが生の理想とすべきものは何であろうか。少しもわかっていない。 もちろんかような問題に関した学問も一通り・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫