・・・微苦笑とは久米正雄君の日本語彙に加えたる新熟語なり。久保田君の時に浮ぶる微笑も微苦笑と称するを妨げざるべし。唯僕をして云わしむれば、これを微哀笑と称するの或は適切なるを思わざる能わず。 既にあきらめに住すと云う、積極的に強からざるは弁じ・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・私は、自分が極貧の家に生れて、しかも学歴は高等小学校を卒業したばかりで、あなたが大金持の(この言葉は、いやな言葉ですが、ブルジョアとかいう言葉は、いっそういやですし、他に適切な言葉も、私の貧弱な語彙を以華族の当主で、しかもフランス留学とかの・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・描写が下手だから苦労するのである。語彙が貧弱だから、ペンが渋るのである。遅筆は、作家の恥辱である。一枚書くのに、二、三度は、辞林を調べている。嘘字か、どうか不安なのである。 自作を語れ、と言われると、どうして私は、こんなに怒るのだろ・・・ 太宰治 「自作を語る」
・・・やがてその、熱いところを我慢して飲み、かねて習い覚えて置いた伝法の語彙を、廻らぬ舌に鞭打って余すところなく展開し、何を言っていやがるんでえ、と言い終った時に、おでんやの姉さんが明るい笑顔で、兄さん東北でしょう、と無心に言った。お世辞のつもり・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・われわれの役目はただそれらの怪異現象の記録を現代科学上の語彙を借りて翻訳するだけの事でなければならない。この仕事はしかしはなはだ困難なものである。錯覚や誇張さらに転訛のレンズによってはなはだしくゆがめられた影像からその本体を言い当てなければ・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・たとえば、一万種の語彙があるとしてその中からたった七語の錯列を作るとすると約十の二十八乗だけの組み合わせができるが、われわれの脳髄はきわめて楽にその組み合わせのおのおのの区別を判別する能力をもっている。それどころか、昔でさえもたとえば論語を・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・も西洋にはないと言うのである、そうして、こういう語彙自身の中に日本人の自然観の諸断片が濃密に圧縮された形で包蔵されていると考えるのである。 日本における特異の気象現象中でも最も著しいものは台風であろう。これも日本の特殊な地理的位置に付帯・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・さらばこそ万葉古今の語彙は大正昭和の今日それを短歌俳句に用いてもその内容において古来のそれとの連関を失わないのである。またそれゆえにそれらの語彙が民族的遺伝としての連想に点火する能力をもっているのである。 しかしまたこれらの語彙の意義内・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・それは単に語彙中のあるもののみならず、その文法や措辞法に、東西を結びつける連鎖のようなものを認める、と思ったからである。 最近に至って「言語」に対する自分の好奇心を急激な加速度で増長せしめるに至った経路はあるいは一部の読者に興味があるか・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・社会が進んで万葉集の時代の条件とは全く異りつつしかも自然な合理性の上に自由に女の生活が営まれるようになった場合、はたして女らしさというような社会感情の語彙が存在しつづけるものだろうか。きっと、それは一つの古語になるだろうと思われる。昔は、女・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
出典:青空文庫