・・・三 自分が最も熱心にウォーズウォルスを読んだのは豊後の佐伯にいた時分である。自分は田舎教師としてこの所に一年間滞在していた。 自分は今ワイ河畔の詩を読んで、端なく思い起こすは実にこの一年間の生活及び佐伯の風光である。かの・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・中でも早吸の瀬戸などは神武天皇が東征の時に御通りになったというので、歴史で名高くその名も潮流の早い事を示していて大変に面白い名でありますが、今ではただ豊後海峡と呼ばれています。伊予の西の端に指のように突き出た佐田岬半島と豊後の佐賀の関半島と・・・ 寺田寅彦 「瀬戸内海の潮と潮流」
・・・維新前は五千石を領した旗本大久保豊後守の屋敷があった処で、六間堀に面した東裏には明治の末頃にも崩れかかった武家長屋がそのまま残っていた。またその辺から堀向の林町三丁目の方へ架っていた小橋を大久保橋と称えていた。 これらの事はその頃A氏の・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・四時間ばかり余裕を見て、大淀駅から青島行自動車に乗った。豊後から日向に入ると、景色が変った。豊後の、海沿いに島があったり、入江があったり、実に所謂いい景色にちんまりしていたのが、日向にかかると、風景がずっと放胆で平原的になった。広々した畑、・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
・・・ここは予測の通り余り気に入らず、豊後の臼杵へ廻った。臼杵から先、中津の自性寺を見、福岡の友でも訪ねるか、いずれにせよ、軽少の財嚢に準じて謙遜な望みしか抱いていなかった。臼杵の、日向灘を展望する奇麗な公園からK氏の別荘へぶらぶら帰る時であった・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・徳川将軍は名君の誉れの高い三代目の家光で、島原一揆のとき賊将天草四郎時貞を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には松平伊豆守、阿部豊後守、阿部対馬守の連名の沙汰書を作らせ、針医以策というものを、京都から下向させる。続いて・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 舟は豊後国佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫