・・・私はちっともこわがらず、しばらくは、ただ煙草にふけり、それからゆっくりうしろを振りかえって見たのであるが、小さい鳥居が月光を浴びて象牙のように白く浮んでいるだけで、ほかには、小鳥の影ひとつなかった。ああ、わかった。いまのあのけはいは、おそら・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・「そうですとも。」熊本君は、御機嫌を直して、尊大な口調で相槌打った。「私たちは、パルナシヤンです。」「パルナシヤン。」佐伯は、低い声でそっと呟いていた。「象牙の塔か。」 佐伯の、その、ふっと呟いた二言には、へんにせつない響きがあった・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・瞳の焦点がさだかでなく、硝子製の眼玉のようで、鼻は象牙細工のように冷く、鼻筋が剣のようにするどかった。眉は柳の葉のように細長く、うすい唇は苺のように赤かった。そんなに絢爛たる面貌にくらべて、四肢の貧しさは、これまた驚くべきほどであった。身長・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・そのバタというものの名前さえも知らず、きれいな切り子ガラスの小さな壺にはいった妙な黄色い蝋のようなものを、象牙の耳かきのようなものでしゃくい出してパンになすりつけて食っているのを、隣席からさもしい好奇の目を見張っていたくらいである。その一方・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・ しかし、象牙の塔のガラス窓の中から仮想ディノソーラス「ジャーナリズム」の怪奇な姿をこわごわ観察している偏屈な老学究の滑稽なる風貌が、さくら音頭の銀座から遠望した本職のジャーナリストの目にいかに映じるかは賢明なる読者の想像に任せるほかは・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・いつだったか、先生がどこかから少しばかりの原稿料をもらった時に、さっそくそれで水彩絵の具一組とスケッチ帳と象牙のブックナイフを買って来たのを見せられてたいそううれしそうに見えた。その絵の具で絵はがきをかいて親しい人たちに送ったりしていた。「・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・こういういで立ちをした白皙無髯、象牙で刻したような風貌が今でも実にはっきりと思い出されるのである。 この街頭における四方太氏のいで立ちを夏目先生に報告したら、どういうわけか先生がひどくおもしろがって腹が痛くなるほど笑われたことも思い出す・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・ところが、すすけた象牙の塔はみじんに砕かれた。自分はただ一人の旧世界の敗残者として新世界のただ中にほうりだされたような気がしたのである。 往来へ出て見ると、そこのラジオ屋、かしこの雑貨店の店先には道ゆく人がめいめいの用事を忘れて立ち止ま・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・鉄で作った金平糖のようなえらの八方へ出た星を、いくらか歪みなりにできた長味のある輪から抜き取るのや、象牙でこしらえた小さい角棒の組合せから、糸で繋いだ、それよりも小さい砕片を潜らせるのや、いろんなのがあった。おひろはそんな物が好きであった。・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・読みさした所に象牙を薄く削った紙小刀が挟んである。巻に余って長く外へ食み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖で触ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握って見て・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫