・・・そこそと小河で手をみそいでばかりいて皮膚の弱くなる潔癖は、立小便すべからずの立札にも似て、百七十一も変名を持ったスタンダールなどが現れたら、気絶してしまうほどの弱い心臓を持ちながら、冷水摩擦で赤くした貧血の皮膚を健康の色だと思っているのであ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・――母親は貧血を起していた。「ま、ま、何んてこの塀! とッても健と会えなくなった……」 仕方なくお安だけが面会に出掛けて行った。しばらくしてお安が涙でかたのついた汚い顔をして、見知らない都会風の女の人と一緒に帰ってきた。その人は母親・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・ 不思議なことには、このドイツ語で紹介された老子はもはや薄汚い唐人服を着たにがにがとこわい顔をした貧血老人ではなくて、さっぱりとした明るい色の背広に暖かそうなオーバーを着た童顔でブロンドのドイツ人である。どこかケーベルさんに似ている、と・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・の皮下注射方もっとも適当にして、医師も常にこの方に依頼して一時の急に応ずといえども、その劇痛のよって来る所の原因を求めたらば、あるいは全身の貧血、神経の過敏をいたし、時候寒暑等の近因に誘われて、とみに神経痛を発したるものもあらん。全身の貧血・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・という言葉が用いられはじめて、プロレタリア文学運動の組織が破壊されたのちの日本の文化・文学が見出したものは、全面的な混迷と貧血とであった。「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」は総括的にこの時期を展望している。プロレタリア文学運動の組・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・仕事があっても、これでは儲けが皆組へ行ってしまって、会社は益々貧血するので、あるところに廃工場となっていたのを復活させて、それを組にやって、吸血をまぬかれたというのである。組の現場監督の下の親父と、その下につかわれている労働者たちとの関係は・・・ 宮本百合子 「くちなし」
・・・ソヴェト同盟に向けて計画された出血の諸企図は、ついにこの国の社会生活を貧血死に導くことができなかった。このことには人類史的な意味があり、歓喜があるのである。 ソヴェト同盟では、集団農場・国営農場があって、機械化された農業が行われている。・・・ 宮本百合子 「政治と作家の現実」
・・・ 英蘭銀行を中軸とする商業地帯は午後五時以後一時に暗く貧血して夜毎の仮死状態に入る。 が、諸君! ロンドンの勤労者諸君! 諸君はロンドン地下電車に積み込まれて疾走しつつ、頭の上にどんなロンドン市地図が展開しているか果して知っているか・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・詩人バリモントやブリューソフが蒼白い虚無だの人生の目的の喪失だのをうたった時は、もう社会の他の一部には彼等詩人たちが何故そのように貧血した虚無しか感じ得なくなっているかという社会的根拠を闡明することの出来る叡智・科学的洞察力が高まって来てい・・・ 宮本百合子 「私たちの社会生物学」
・・・その横の洋服屋では首のない人間がぶらりと下がり、主人は貧血の指先で耳を掘りながら向いの理亭の匂いを嗅いでいた。その横には鎧のような本屋が口を開けていた。本屋の横には呉服屋が並んでいる。そこの暗い海底のようなメリンスの山の隅では痩せた姙婦が青・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫