・・・ 如何でしょう、以上ザッと話しました僕の今日までの生涯の経過を考がえて見て、僕の心持になって貰いたいものです。これが唯だ源因結果の理法に過ないと数学の式に対するような冷かな心持で居られるものでしょうか。生の母は父の仇です、最愛の妻は兄妹・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・子供を持っている姉は、夫に吸わせる煙草を貰いに来た。 松木は、パンを持って来た。砂糖を持って来た。それから、五円六十銭の俸給で何かを買って持って来た。 でも、彼女の一家の生活を支えるには、あまりに金を持っていなすぎる。もっとよけいに・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・一時ばかりにして人より宝丹を貰い受けて心地ようやくたしかになりぬ。おそろしくして駄洒落もなく七戸に腰折れてやどりけるに、行燈の油は山中なるに魚油にやあらむ臭かりける。ことさら雨ふりいでて、秋の夜の旅のあわれもいやまさりければ、さ・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 何べんも間誤つき、何べんも調らべられ、ようやくのことで裁判所から許可証を貰い、刑務所へやってきた。――ところが、その入口で母親が急に道端にしゃがんで、顔を覆ってしまった。妹は吃驚した。何べんもゆすったが、母親はそのまゝにしていた。・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・と言って貰いたかったが、退屈した子供をどうすることも出来なかった。三吉は独りでも家の方へ帰れると言って、次の駅まで二里ばかりは汽車にも乗らずに歩いて行こうとした。この田舎育ちの子供が独りでぽつぽつ帰って行く日にはおげんはお新と二人で村はずれ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・少くもわたしに対して意地を悪くしていないということを知らせて貰いたいわ。なぜだか知らないが、誰を敵に持つよりも、お前さんを敵に持つのは厭だわ。こう思うのは最初にお前さんの邪魔をわたしがしたからかも知れないわ。それともどういうわけか知ら。わた・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・宿屋の勘定も佐吉さんの口利きで特別に安くして貰い、私の貧しい懐中からでも十分に支払うことが出来ましたけれど、友人達に帰りの切符を買ってやったら、あと、五十銭も残りませんでした。「佐吉さん。僕、貧乏になってしまったよ。君の三島の家には僕の・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・それでは一つ貰いましょうと云って、財布を取り出すために壷を一度棚に返そうとする時に、どうした拍子か誤ってその壷を取り落した。下には磁器の堅いものがゴタゴタ並んでいたので、元来脆いこの壷の口の処が少しばかり欠けてしまった。私は驚いて「どうもと・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・「争議が済んだら、俺が貰い下げに行ってやろう?」 そしたら奴らどんな顔するだろう。 彼は、何だか、眼前が急に明るくなったように感じられた。腹心の、子飼の弟子ともいうべき子分達に、一人残らず背かれたことは、彼にとって此上ない淋しい・・・ 徳永直 「眼」
・・・以前日本にいた頃、柳橋で親しくなった女から、わたくしは突然手紙を貰い、番地を尋ねて行くと、昔から妾宅なぞの多くある堤下の静な町である。 その頃はやっと三十を越すか越さない身の上の事。すぐさま女をさそい出して浅草公園へ夕飯をたべに行った。・・・ 永井荷風 「向島」
出典:青空文庫