・・・かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、戛然と瞬時の響きを起す。「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。 女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ それでも、子供たちは、その小さな心臓がハチ切れるように、喘いでいるのにその屍体を起すことにかかっていた。若し、飯場の人たちが、親も子も帰らない事を気遣って、探しに来なかったならば、その親たちと同じ運命になるのであったほど、執拗に首を擡・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・父母が何か為めにする所ありて無理に娘を或る男子に嫁せしめんとして、大なる間違を起すは毎度聞くことなり。左れば男女三十年二十五年以下にても、父母の命を以て結婚を強うることは相成らず。又子の方より言えば仮令い三十年二十五年以上に達しても、父母在・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・しかしこの平民的な苗字が自分の中心を聳動して、過ぎ去った初恋の甘い記念を喚び起すことは争われない。 その時のピエエルは高等学校を卒業したばかりで、高慢なくせにはにかんだ、世慣れない青年であった。丈は不吊合に伸びていて、イギリス人の a ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ておるのである。主観的の方は普通の人・・・ 正岡子規 「死後」
・・・「そこでそのケイザイやゴラクが悪くなるというと、不平を生じてブンレツを起こすというケッカにホウチャクするね。そうなるのは実にそのわれわれのシンガイでフホンイであるから、やはりその、ものごとは共同一致団結和睦のセイシンでやらんといかんね。・・・ 宮沢賢治 「クねずみ」
・・・ お君は父親を起すまいと気を配りながら折々隣の気合(をうかがって、囁く様に恭二に話した。 川窪で若し断わられたらどうしよう、東京中で川窪外こんな相談に乗ってもらう家がない。 どうもする事が出来ずに父親が帰りでもしたら又何と云われ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・死なせに起すのだと思うので、しばらくは詞をかけかねていたのである。 熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして、顔をこっちへ向けている。「もし、あなた」と女房は呼んだ。 長十郎は目をさまさない・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・絶えず隙間を狙う兇器の群れや、嫉視中傷の起す焔は何を謀むか知れたものでもない。もし戦争が敗けたとすれば、その日のうちに銃殺されることも必定である。もし勝ったとしても、用がすめば、そんな危険な人物を人は生かして置くものだろうか。いや、危い。と・・・ 横光利一 「微笑」
・・・複雑に結びついた感情ほど不安を起こす程度がはなはだしい。 しかしこれらの感情のすべてが一個人に集まるのは、ただ彼に対してのみである。それゆえに彼は何人よりも激しく私を不安ならしめる。私は一人でいて彼の名を思い浮かべただけでも、もういらい・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫