・・・今の中に波を越す方がいいよ」 といいました。そういわれればそうです。私と妹とは立止って仕方なく波の来るのを待っていました。高い波が屏風を立てつらねたように押寄せて来ました。私たち三人は丁度具合よくくだけない中に波の脊を越すことが出来まし・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 靴が左から……ト一ツ留って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。 たとえば歩行の折から、爪尖を見た時と同じ状で、前途へ進行をはじめたので、あなやと見る見る、二間三間。 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・盛夏三伏の頃ともなれば、影沈む緑の梢に、月の浪越すばかりなり。冬至の第一日に至りて、はたと止む、あたかも絃を断つごとし。 周囲に柵を結いたれどそれも低く、錠はあれど鎖さず。注連引結いたる。青く艶かなる円き石の大なる下より溢るるを樋の口に・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・大風呂敷の山じゃねえが、一波越すと、谷底よ。浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お太陽様は真蒼だ。姉さん、凪の可い日でそうなんだぜ。 処を沖へ出て一つ暴風雨と来るか、がちゃめちゃの真暗やみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水を・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・こういう風に互に心持よく円満に楽しいという事は、今後ひとたびといってもできないかも知れない、いっそ二人が今夜眠ったまま死んでしまったら、これに上越す幸福はないであろう。 真にそれに相違ない。このまま苦もなく死ぬことができれば満足であるけ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・もっと大きいのも沢山いたが、冬を越す間にこれだけとなりました。 いま、芽ぐんでいる睡蓮が、やがて鉢いっぱいに葉をのばして、黄色な花を咲くころ、その間を泳ぎまわり、卵をつけることだろうと思うと、何となく、この色の鮮かなめだかの将来を、輝や・・・ 小川未明 「金めだか」
・・・日の長い夏のころは、さほどでもなかったが、じきに暮れかかるこのごろでは、帰りに峠を一つ越すと、もう暗くなってしまうのでした。「先生、天気が変わりそうです。早くお帰りなさらないといけません。」 少年小使いの小田賢一は、いったのでした。・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・ひしひしと身近かに来るのは、ただ今夜を越す才覚だった。 喫茶店で一円投げ出して、いま無一文だった。家に現金のある筈もない。階下のゆで玉子屋もきょうこの頃商売にならず、だから滞っている部屋代を矢のような催促だった。たまりかねて、暮の用意に・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・好ござんす、それでは十日には屹度越すことにしますから」と謝まるように云った。「私もそりゃ、最初から貴方を車夫馬丁同様の人物と考えたんだと、そりゃどんな強い手段も用いたのです。がまさかそうとは考えなかったもんだから、相当の人格を有して居ら・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 今朝彼は暖い海岸で冬を越すことを想い、そこに住んでいる友人に貸家を捜すことを頼んで遣ったのだった。 彼は激しい疲労を感じながら坂を帰るのにあえいだ。午前の日光のなかで静かに影を畳んでいた公孫樹は、一日が経たないうちにもう凩が枝を疎・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫