・・・薄氷を踏むような吉田の呼吸がにわかにずしりと重くなった。吉田はいよいよ母親を起こそうかどうしようかということで抑えていた癇癪を昂ぶらせはじめた。吉田にとってはそれを辛抱することはできなくないことかもしれなかった。しかしその辛抱をしている間は・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 支那人、朝鮮人たち、労働者が、サヴエート同盟の土を踏むことをなつかしがりながら、大きな露西亜式の防寒靴をはいて街の倶楽部へ押しかけて行った。 十一月七日、一月二十一日には、労働者たちは、河を渡ってやって行く。三月八日には女たちがや・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ でも、あくる日行くと、また、兎は二人が雪を踏む靴音に驚いて、長い耳を垂れ、草叢からとび出て来た。二人は獲物を見つけると、必ずそれをのがさなかった。「お前等、弾丸はどっから工面してきちょるんだ?」 上等看護長は、勤務をそっちのけ・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・で、やがて娘は路――路といっても人の足の踏む分だけを残して両方からは小草が埋めている糸筋ほどの路へ出て、その狭い路を源三と一緒に仲好く肩を駢べて去った。その時やや隔たった圃の中からまた起った歌の声は、わたしぁ桑摘む主ぁまんせ、春・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・からの自分は新しい家にいて新しい生活を始めねばならない、時には自分は土を相手に戦いながら父のことを思って涙ぐむことがあるとしたところもあり、その中にはまた、父もこの家を見ることを楽しみにして郷里の土を踏むような日もやがて来るだろう、寺の鐘は・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・竹のステッキで、海浜の雑草を薙ぎ払い薙ぎ払い、いちどもあとを振りかえらず、一歩、一歩、地団駄踏むような荒んだ歩きかたで、とにかく海岸伝いに町の方へ、まっすぐに歩いた。私は町で何をしていたろう。ただ意味もなく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・私は、私の家庭においても、絶えず冗談を言い、薄氷を踏む思いで冗談を言い、一部の読者、批評家の想像を裏切り、私の部屋の畳は新しく、机上は整頓せられ、夫婦はいたわり、尊敬し合い、夫は妻を打った事など無いのは無論、出て行け、出て行きます、などの乱・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・曲がりなりにでも自分の目で見て自分の足で踏んで、その見る景色、踏む大地と自分とが直接にぴったり触れ合う時にのみ感じ得られる鋭い感覚を味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと避け・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・自分の前に向き合って腰かけた男が、床上にだれかが持って来て置いた白い茶わんのようなものを踏むとそれがぱちりと砕けた。すると自分も同じように自分の足もとにある白い瀬戸物を踏み砕いた。いったいどういうわけでそんな事をするのか自分でもわからないで・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・すると路地のどぶ板を踏む下駄の音が小走りになって、ふって来たよと叫ぶ女の声が聞え、表通を呼びあるく豆腐屋の太い声が気のせいか俄に遠くかすかになる……。 わたくしは雪が降り初めると、今だに明治時代、電車も自動車もなかった頃の東京の町を思起・・・ 永井荷風 「雪の日」
出典:青空文庫