・・・一本ずつ眼をくぎって行くプラットフォオムの柱、置き忘れたような運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云っている赤帽――そう云うすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行った。私は漸くほっとした心もちになって、巻煙草に火をつ・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、かりに名づけたまでである。 謂う心は、両足を地面に喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 姿見から影を抜出したような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。 そして、ぱっちりした、霑のある、涼しい目を、心持俯目ながら、大きくみひらいて、こっちに立った一帆の顔を、向うから熟と見た。 見た、と思うと、今立った・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 女の身体が車内へはいったのと、汽車が動きだしたのと同時だった。「どうもありがとうございました」「いや、しかし、勇敢ですな」「でも、窓からでないと……。プラットホームで五時間も立ち往生してましたわ。おかげで……」「しかし・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ 町へ出ると、車内や駅や町角に、「一億特攻」だとか「神州不滅」だとか「勝ち抜くための貯金」だとか、相変らずのビラが貼ってあった。私は何となく選挙の終った日、落選者の選挙演説会の立看板が未だに取り除かれずに立っている、あの皮肉な光景を・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・歩かなくても電車や汽車やバスでどこまででも行けるではないかと云われるが、しかしそういう好季節の好天気の休日の交通機関に乗ってゆっくり腰をかけられるチャンスは少ないし、腰かけられたとしても、車内の混雑に起因する肉体的ならびに精神的の苦痛は、目・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・何台目かに来た浜町行に乗込んだら幸いに車内は三、四人くらいしか乗客はなくてこの頃のこの辺のバスには珍しくのんびりしていた。腰をかけて向い側を見ると二十歳くらいの娘がいる。どこかで見たような顔である。 KFという女優らしい。それはこれから・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・してまた上野行に乗込み、さて車内の乗客を見渡すと、先刻行きに同乗した見覚えの顔がいくつも見つかったそうである。多分みんな狐につままれたような顔をしていたことと想像される。 地味な科学者の中でさえも「新しいもの好き」がある。新しいもの好き・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・壁に車内備付品目録がはってあるのを見つけた。 ――モスクワへ帰るとみんな調べうけるんですか? ――そうです。みんな検査する。そのガラスがこわれたから我々二人で十一ルーブリ払わなけりゃならないんです。あなたの方のは犯人がつかまって書類・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 丁度目の前でドアが開いて、七分通り満員の車内の一部が見えた。リュックをかついで、カーキの服を着て、ぼんやりした表情の人々の顔が、こちらを向いている。ああこれが、有楽町か、という心もちの動きの出ている眼もないし、ひどい人だ、と思って投げ・・・ 宮本百合子 「一刻」
出典:青空文庫